小泉悠氏「ウクライナ戦争をめぐる『が』について」

 宗教法人を所管する盛山正仁文部科学相が、統一協会側との事実上の「政策協定」にあたる推薦確認書に署名していた!! 朝日新聞のスクープ。

NHKより

 盛山文科相は「十分に内容をよく読むことなくサインをしたのかもしれません」などととんでもない答弁をしたが、世間では、連帯保証人の書類であっても署名したあとで「十分に内容を読むことなく・・」と釈明しても許されない。万が一それが本当だとしても、政策協定をいいかげんな気持ちで結んで政治家がつとまるのか。嘘をつき続けてきたこともあわせ、どこからみても大罪。大臣だけでなく議員も辞任するしかない。

 今回の「裏金」問題でも、自民党統一協会の時と同じく、所属議員へのアンケートと内部調査ですますのだという。しかも質問は2問だけ。

 岸田内閣はもう政府の体をなしていない。総辞職相当だ。

 

 朝日川柳から

やっている振りにもならぬアンケート 京都府 小林茂

「裏金は?」「ありません」「はい次の人」 神奈川県 山本晴男

調査って壺(つぼ)のときにもやったけど 栃木県 森島彰

計ったような適材適所文科相 山形県 大森志津

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 政治的には「保守」に分類されるはずの小泉悠氏が、去年、岩波書店の雑誌『世界』に論考を載せたときにはさすがに驚いた。メディア関係者の間ではちょっとした話題になった。

 このウクライナ戦争をめぐる『が』について」(『世界』10月号)ウクライナ戦争をめぐる議論の核心をついているだけでなく、彼の人柄も出ていてとても興味深い。読んでいない人も多いと思うので、抜粋で紹介したい。

《この間、日本でも多くの論考が世に出たが、そのうちの少なからぬものが「ロシアの侵略は許されるものではないが」という枕詞で始まっていた。これがどうもひっかかる、というのが本稿の根柢にある問題意識である。

 この枕詞は、ロシアの行為が「侵略」であり「許されるものではない」という前提を置いている。したがって、ロシアがウクライナに攻め込んで破壊と殺戮の限りを尽くしていることを決して肯定するものではないだろう。》

《一方、この枕詞で始まる言説自体に改めて注目してみると、その多くは、戦争の背後にある「複雑さ」を見落としてはならないと指摘する点で共通するようだ。》と論考は始まる。

 私もウクライナ問題をいろいろな人と議論するなかで、この枕詞に何度も出会った。たいていは、「ロシアだけを批判してはならない」という結論に持っていくのだが、なかにはこの戦争はアメリカの軍事産業が主導しておりウクライナはそれに踊らされているに過ぎないとまで主張するむきもあった。ただ、ロシアの所業はあまりに酷すぎるので、まずは一応批判しておかないといけない。そういう「が」を枕詞にする議論を小泉氏はつぶしにかかる。

《大掴みに眺めてみると、ここでいう「複雑さ」は概ね次のように分類することができよう。

類型1 ウクライナという国家に関する「複雑さ」

 ウクライナは歴史的に現在のような形で存在したことがなく、それぞれに異なった文化・宗教・言語を包含しているという点がこの種の議論では強調される。また、ウクライナ汚職をはじめとする深刻なコンプライアンスの問題を抱えた国家であることもここでは指摘されることが多い。

類型2 冷戦後の歴史に関する「複雑さ」

 冷戦後、NATOがロシアの反対にもかかわらず拡大されてきたというのがここで強調される点である。したがって、ロシアが抱いてきた安全保障上の懸念に言及することなくしてこの戦争を語ることはできないというのがこの類型における重要な論点となる。

類型3 2014年以降のウクライナを取り巻く状況に関する「複雑さ」

 現在の事態は2014年のウクライナにおける政変(マイダン革命)の延長上にある。したがって、この戦争に関してはマイダン革命とこれに続いて2014-15年に発生した一連の軍事的事態の性質に関する評価を踏まえなければならないとするのがこの立場である。》

 こう三つの「複雑さ」を挙げた上で、小泉氏はこれらをいったん認める。

《結論から言えば、筆者は以上のいずれの主張に関しても原則的には反対ではない。複雑なものは複雑に語らねばならないのであって、これを捨象してしまえば「正義と悪の戦い」といった過度に単純化された理解でしか世界を見ることができなくなってしまう。(略)

 ただ、問題としたいのは、このような「複雑さ」を受け入れた上でも尚、「ロシアの侵略は許されるものではないが」という逆接辞を付す余地はあるのかどうかである。この「が」というたった一文字はなかなかに厄介なものであって、よほど慎重に用いるのでない限り、我々が生きる世界の秩序を容易に掘り崩しかねない危険性を孕んでいる。》

 そこでまず「類型1」を考えてみる。

ウクライナが歴史的に現在のような形では存在してこなかったこと、多様なアイデンティティを抱える国家であること、多くのコンプライアンス問題を持つこと。これらは基本的に客観的な事実である。プーチン大統領が2021年7月に公表した論文「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について」で強調したのも、まさにこの点であった。

 しかし、これらの「複雑さ」は逆説の「が」を導かない。この種の「複雑さ」に関する議論が主張できるのは「ウクライナは複雑である」ということまでであって、それ以上の何かに関する根拠とは一切ならない。

 なんとなれば、この程度のことが戦争の理由たり得るならば、この世の中は戦争を仕掛けられても仕方がない国だらけであることになってしまうからである。ウクライナを侵略した当のロシア自身、歴史的には今のような形をとるようになったのは近代になってからであり、多様なアイデンティティを持ち、汚職と経済的不平等と権威主義的抑圧で問題視されている国でもある。だが、それを理由にロシアへの侵略を正当化する声があるならば筆者は断固反対したい。

 もっと言えば、国家であるとか、その基礎となる国民という概念自体が近代になって生まれた虚構(フィクション)なわけである。(略)ただ、フィクションは解体されねばならないのだと主張するにしても、その手段は非暴力的なものでなければならない、という点は言えるのではないだろうか。》

 小泉氏、なかなかの論客、というかケンカ(論争)が強い。

 さらに、国連が明らかにした戦争の犠牲者の数を挙げつつ、これはあくまで確認できただけの数であるとして—

《ロシア軍占領地域においてどれだけの死者が出ているのかは全く明らかでない。実際には万の単位で無辜の一般市民が殺害され、あるいは障害にわたって回復不能な障害を負っているはずであるし、その中にはロシア軍兵士が行った住民殺害・虐待行為、治安機関による組織的な拷問・レイプ・処刑によるものも相当含まれていると考えられる。

 どのような「複雑さ」を考慮したとしても、これほどの破壊と殺戮をもたらす権利はどの国家にもあるはずがない。人々が平穏な生活を営む都市にクラスタ―爆弾やサーモバリック弾を打ち込んで吹き飛ばす権利が誰にあるというのか。》

 このあたり、熱のこもった踏み込みでまず類型1を「論破」している。

(つづく)