命もいらぬ、名もいらぬ

takase222010-10-15

検察の横暴の話は続くのだが、ちょっと閑話休題で、昔のすごい人の話をしたい。
最近、歴史を振り返ると、つくづく、日本には立派なリーダーがいたことに気づく。今の覚悟の据わらない政治家たちをみるにつけ、感心させられることが多い。
ことに国難に見舞われたとき、例えば、舵取りをちょっと間違えれば、確実に欧米列強に植民地化されただろう幕末など、まさにキラ星のごとく「人物」が現われている。そして彼らはみな命を賭して働き、あるいは志半ばにして斃れながら、日本を救ったのだった。
当時、アジアで、日本の他に植民地化されなかったのは、英仏の間でかろうじて均衡を取ったタイくらいだった。大政奉還という離れ業で、内戦を避けつつ政治体制をひっくり返し近代化を成し遂げたのは世界史に残る快挙といってもよいと思う。
もっとも重要な画期といえる江戸城無血開城は、勝海舟西郷隆盛にその功が帰せられる。しかし、そのお膳立てをしたのは、山岡鉄舟だった。
山岡鉄舟は、剣・禅・書の達人で、私は以前から、禅の本で彼のエピソードに触れていた。壮年期はとても貧しかったそうで「ボロ鉄」というあだ名だった。自宅は荒れ放題、畳は家に一畳しかなかった。その畳、座るところが丸く穴があいて、芯のワラが出ていた。
いつもたくさんの鼠が家中をかけまわっていたが、ひとたび鉄舟が坐禅を始めると、鼠はどこかへ隠れて姿を見せなかったという。「おれの禅は鼠のかかしが相場かな」と奥さんに笑って言ったと伝えられる。
坐禅は、意識が朦朧としてはいけないと教えられるのだが、私などはついトローンとして、いわゆる「死坐禅」になってしまう。鉄舟の坐禅は、心・息・身一体の気力に満ちた理想的な「仁王禅」だったのだろう。身長6尺2寸というから188センチもあった。ものすごい気魄を発していたのではないだろうか。
晩年には、逆に、写経などしていると、鼠が肩や腕にのぼって戯れてきたという逸話が残っている。にわかに信じられないが、坐禅の到達度が相当なものだったことの証左だろう。
明治元年鳥羽・伏見の戦いに勝った新政府軍5万が、江戸城に向けて進軍してきたとき、鉄舟は幕府の特使として東征軍参謀、西郷に談判に行った。鉄舟は西郷に、江戸総攻撃をやめ徳川慶喜の助命を朝廷に嘆願してくれるよう頼んだ。もし交渉に失敗すれば江戸は戦火に見舞われたくさんの犠牲が出、深刻な人心の分裂が生まれることになる。鉄舟は死ぬつもりで出かけていったと私は思う。
難しい交渉を成功させたのは、鉄舟の誠意あふれる訴えだったという。ついに西郷が折れ、江戸城無血開城につながった。
西郷が勝海舟に鉄舟について語った有名なことばが残っている。
「命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、といったような始末に困る人です。しかし、あのような始末におえぬ人でなければ、お互いに腹を開けて、ともに天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんのごとき人でしょう」
山岡鉄舟を特使に選び、決定的な場面に送り出した勝海舟も、また忠実な幕臣だった鉄舟を後に明治天皇の家庭教師に抜擢した西郷も、人物を見る目があったのだろう。
のちに鉄舟は、清水次郎長にほれ込み、次郎長も「自分の親分は山岡鉄舟」と心酔する仲になったという逸話もある。
たくさんの偉人を輩出し、彼らが互いに認めあう、そんな時代があった。子孫である我々もそんな日本を作れるはずだ。
歴史を学ぶと元気が出てくる。