今年は「戊辰150年」

 日中はまだ異様な暑さだが、夜、虫の音が聞こえて、秋の気配を感じ取れるようになってきた。
 そろそろ秋刀魚の季節だが、去年とは打って変って今年は豊漁だとか。宮城県女川で獲れた秋刀魚を震災の数年前にいただく機会があって、それがとてもうまかったのを今も覚えている。秋刀魚で三陸の被災地も多少は活気が出るだろうか。
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 安倍晋三首相、鹿児島県で自民党総裁選への立候補を表明したさい、「薩長で力を合わせて、新たな時代を切り開いていきたい」と語ったという。
 薩長?ああ、そうですか。では、このポスターを見ていただこうか。

 安倍首相はさかんに明治150年を強調して、NHK大河ドラマでは『西郷どん』が放送されているが、会津ではいまなお「戊辰150年」なのだ。

 1867年10月、15代将軍、徳川慶喜は、政権を天皇に返す「大政奉還」を行った。しかし、新政府の慶喜に対する官位剥奪と領地返上に反発した旧幕府側が京都に軍を進め戊辰戦争がはじまった。鳥羽・伏見の戦い旧幕府軍が敗北。その後、旧幕府側は江戸城を明け渡し、会津藩も新政府側に恭順の意を示すが、受け入れられなかったため、会津、庄内、米沢、仙台などの北日本にある諸藩が「奥羽越列藩同盟」を結んで新政府に対抗した。新政府軍は東北に兵を進め「朝敵」のリーダーたる会津藩を猛攻撃。1カ月にわたる激戦の末、攻め滅ぼした。
http://boshin.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/1/

 近年、江戸時代の社会のあり方への再評価が進む一方で、日本の近代化はあの明治政府の方式しかなかったのかという疑問が投げかけられている。明治維新は素晴らしかった、薩摩・長州は正義だったという常識を離れ、「朝敵」とされた会津側から歴史を見直してみるのも意味があるはずだ。
 高世の一族が、上杉家の移封に伴って会津藩から米沢藩に移ってきた漆職人の集団だったということもあり、明治維新礼賛には違和感があった。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20130716

 感銘を受けたのが『ある明治人の記録 改版 - 会津人柴五郎の遺書』(中公新書)で、会津藩士のもとに生まれ、のちに陸軍大将にまでなった柴五郎が遺した遺書を、石光真人がまとめたものだ。
 会津戦争のとき柴五郎は12歳。一家の男子はみな防衛戦に参加するなか、祖母、母、兄嫁、姉妹の女性全員が自刃。姉の嫁ぎ先の家でも、負傷して動けぬ夫を含め一家9名が自刃する。自刃は、戦の足手まといにならぬようにという意味もあるが、薩長など新政府軍の婦女子強姦など乱暴狼藉がすさまじかったことも背景にあったという。
 「ああ自刃して果てたる祖母、母、姉妹の犠牲、何をもってか償わん。また城下にありし百姓、町人、何の科なきにかからわず家を焼かれ、財を奪われ、強盗強姦の憂目をみたること、痛恨の極みなり」という柴五郎は、その痛恨の極みを胸に、明治を生きていくことになる。
 会津側に言わせれば、前年すでに大政奉還をしており、政治的な決着はついているわけだし、鳥羽伏見の戦いのあとは恭順の意を示しているのだから、なぜあらためて大軍を持って軍事的に攻撃してくるのか、と新政府側が理不尽にみえる。結果、明治維新は無血革命とはならず、凄惨な武力による政権転覆となったのである。さらに負けた会津藩には酷い報復が待っていた。
 敗戦後、会津松平家は、会津を追われて元盛岡藩領に斗南(となみ)藩を立藩し、旧会津藩士約2万人のうち、4,332戸1万7,327人が斗南藩に移住させられた。これほどの大量流刑は日本列島の歴史に例がないのではないか。新政府の冷酷さが見える。
 下北半島の「厳寒不毛の地」での入植の苦労は筆舌に尽くしがたく、飢餓線上の暮らしを余儀なくされる人々も多かったという。
 柴五郎は、陸軍に入り中国通として知られるようになる。1900年の義和団の乱のときは清国公使館駐在武官として、各国の大使館を襲う暴徒に対して60日におよぶ籠城戦を戦い、中国人にも各国大使らにも感謝されたという。とくに英国の柴に対する評価は高く、ビクトリア女王が勲章を授けている。日英同盟が実現したのは柴の存在によるとさえ言われている。柴は、薩摩・長州の要職独占のなか、陸軍大将まで上り詰める。
 太平洋戦争がはじまって1年足らずの昭和17年の秋、柴五郎は「この戦は負けです」と断言したという。時流におもねらず、冷静に事態を観ることができた人なのだろう。
 玉音放送を聞いた1ヶ月後、85歳の柴は身辺を整理し自決を図るも、老齢のため果たせず、一命をとりとめるが、その怪我がもとで同年12月に息を引き取った。

 明治150年ではない視点からの景色をもっと知りたい。