テレビが熱かった「シャボン玉ホリデー」のころ

 通勤途中、前を歩いていた男性が私を振り返った。自分がいつの間にか「おどるポンポコリン」を口ずさんでいたのに気づいた。きのうから、漫画家、さくらももこさん死亡のニュースを繰り返し観たからだ。

 東京新聞朝刊にさくらももこさんの特集記事が載っていた。さくらさんは2007年7月から11年12月末まで、東京新聞に4コマ漫画「ちびまる子ちゃん」を連載していた。連載は11年3月11日の東日本大震災で一つの転機を迎えたという。社会問題には触れない方針だったが、3月18日には、涙を浮かべるまる子に「きっと大丈夫だよね。日本も」と語らせている。その直後から約2週間休載した。その年末に連載を終了するときも、その時期が「本当につらかった」と振り返っていたという。思いやりの深い、やさしい人だったのだろう。
 連載中からがんを患っていたという。
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 東京新聞の夕刊に、コメディアンの小松政夫さんが半生を振り返る「この道」というエッセイが連載されている。
 いま、クレージーキャッツ植木等の付き人だった小松さんが芸人としてデビューしたバラエティ番組「シャボン玉ホリデー」の時代にさしかかった。振り返ると、これはほんとうにおもしろく一番楽しんだ番組だった。昔の番組では、「てなもんや三度笠」や「お笑い三人組」などがすぐに頭に浮かぶ。当時はだれもが話題にする国民的番組がいくつもあった。
 シャボン玉の構成作家には、野坂昭如前田武彦青島幸男はかま満緒など錚々たる人々がいた。テレビに人材が集まり、最もおもしろかった時代だったのかもしれない。
 クレージーキャッツの付き人やバックバンド、コーラスのメンバーには、番組収録の際にコントで使う通行人の役や子どもの役など端役が急に回ってきます。みんな何でもいいから役をもらって芸能界ではい上がろうと必死でした」。演出の秋元知史は一つのコントを5、6人の作家に書かせ、できた原稿に目を通すと「こんなものが面白いか」と怒ってビリビリ破り、複数の案からいいところだけ取り出して一つの話を作り上げた。「台本ができて放送までのリハーサルも真剣勝負で、徹底的に繰り返します。タレントのダラダラ話を垂れ流すだけの今のバラエティ番組とは全然違いました」。
 「1週間で睡眠時間10時間」などという小松さんの付き人時代、テレビ制作現場の「熱」の高さはすさまじいものがあった。私がテレビの世界に入ったころはまだその熱さが残っており、テレビ局の会議で、怒声とともに灰皿が飛んできたりもした。
 今はシャボン玉のような国民的番組は生まれにくい。若い人はそもそもテレビを見ない上に、制作現場の変化もあずかっているのだろう。テレビに元気がないと言われるが、テレビの勃興期を生きた人の話はとても興味深い。
 一方、バラエティ畑ではない、報道・ドキュメンタリー系の番組制作者の熱い闘いについては、テレビマンユニオンの創設者たちが書いた『お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か』 (朝日文庫) がおもしろい。テレビ報道のあり方をめぐって批判、疑問が高まるなか、昔を振り返るのも意味があるだろう。次回、紹介してみたい。