長井健司さんの死によせて―独裁を倒した記者の死

7日の「サンプロ」特集「南北首脳会談」の準備で徹夜だった。
ゆうべ夜11時にディレクターが取材テープとともにソウルから帰国、彼と私はそのまま今朝7時半まで番組の特集責任者と打ち合わせ。一方、テープは待機していたAD、通訳により書き起こしと翻訳に回される。これと並行して別班が編集作業をどんどん進めていく。放送前の追い込み時、ジンネット内で7〜8人が徹夜ということも珍しくない。この業界で仕事をすると、「体が資本」という言葉が身に迫ってくる。
きょうは、横田めぐみさんの43歳の誕生日だ。生まれたのは東京オリンピックのあった1964年。拉致されたのは13歳になってまもなくの1977年11月15日のことだった。娘を持つ親なので実感として分かるが、13歳というのは、まだあどけない子どもである。そんな幼い子が家族や友人と突然切り離されて、30年もの時間が経ってしまった。どのような思いでこれまでを過ごしてきたのか、いまどうしているのか。あらためて、拉致という行為の非道さを思い、金正日体制打倒の決意を固める。
さて、長井さんの死に触発されて、旧友がブログをはじめた。そこで、あるジャーナリストの虐殺が一つの独裁政権の崩壊を導いた事例に触れている。日本ではほとんど知られていないが、ジャーナリスト受難史の筆頭にランクされてよい事件である。
「1979年6月20日、中米ニカラグアのソモサ独裁政権下で、内戦取材中に米国ABCビル・スチュアート記者が、政府軍兵士に射殺されました。当時のニュースがYouTubeにありました。
http://jp.youtube.com/watch?v=-hp3oddpU5Y
この映像は米国民に衝撃を与え、米国政府は独裁体制を支えてきた援助を停止。翌月7月19日には、サンディニスタ革命政権が樹立されました。
その後も射殺の理由は明らかになりませんでした。というよりも、なんの説明もなく人の命が奪われる、それがニカラグア人の日常でした。
ミャンマーはどうでしょうか。
おそらく弾圧の犠牲者は、発表されている数を大きくうわまわるでしょう。
今見ているのは、ミャンマーの人々の日常なのかもしれません。
日米二人の記者の魂は、『目をそらすな』と教えてくれています。」
ここに紹介されたYouTubeのニュース映像は、残酷きわまりないものだが、ぜひクリックして見てほしい。言葉の真の意味での「虐殺」である。アナウンサーは「兵士が彼を地面に伏せさせた。兵士は彼を足で蹴り、そして銃で撃った。一発の銃弾で。ニカラグア人通訳も殺された。エンジニア、カメラマン、運転手はスチュアートの遺体とともにホテルに戻ることができた」と言っている。
この映像が、独裁政権のスポンサーであったアメリカの援助を止めさせ、わずか1ヶ月で政権交代をもたらしたのである。
こうしてジャーナリストは、自らの死で、そしてその映像をもって、世の中を大きく変えることがあるのだ。あらためてジャーナリストの「使命」というものを考えさせられる。
引用したのは、地球の裏側、ペルー在住の日本人ジャーナリスト、下野浩介さんのブログhttp://chasqui.cocolog-nifty.com/blog/である。
下野さんは、かつて私と同じ職場で仕事をした仲間だ。また、私がタイに住んでいたころ、彼はカンボジアに駐在していて、よく行き来したものだ。紛争地の取材経験も多く、麻薬、反政府ゲリラなど危険なテーマにも挑戦してきた。
中南米にいる、志のあるジャーナリストは、日常的に命の危険を意識せざるをえない。何度も危険な目にあった下野さんとって、長井さんの事件は他人事ではなかっただろう。