わが青春のアメリカ―豊かさの衝撃

9月20日―ワシントンDCで取材。

飛行機が着いたのはサンフランシスコで、そこからバスでスタンフォード大学に向かった。ここでフィリピンやオーストリアなどの留学生とともに数日オリエンテーションを受けた。
1970年といえば、日米の経済差はとても大きく、とくに私のように田舎から出てきたものにとっては、アメリカはどこを見ても目のくらむような豊かさに溢れていた。高層ビルの群れ。広いハイウェー。芝生のあるきれいな家々。
スタンフォード大学がまたすごかった。キャンパスの各所に停留所があり、バスで移動しなければならないほど広いのである。建物は空間を贅沢につかって配置されている。学食は天井が高くて豪華だ。我々は、立派な学生寮に泊まったのだが、アメリカ映画の中にいるようで有頂天だった。
オリエンテーションが終わると、それぞれが全米に散っていった。
私が行ったのは、中西部のウィスコンシン州ミルウォーキー市で、配属された高校は、郊外にある有名な私立学校だった。ほとんどの生徒が高収入の白人(ユダヤ人を含む)家庭の子弟で、遠隔地の生徒のための寮まであった。期せずしてアメリカの最上層の人々と暮すことになったのである。
ホームステイ先にはジョンという私と同じ歳の息子がいて、彼と一緒に通学した。好青年で飛び込みの選手だった。父親が鉄鋼会社の重役で、母親は主婦で余暇に大学で学んでいた。さらに父方の祖母、そしてジョージという老犬がいた。サッカーができるくらい広い芝生のある家だった。
通学は原則としてスクールバスを使う。高校は4学年で、1年生が「フレッシュマン」、2年が「ソフォモア」、3年が「ジュニア」、4年が「シニア」で、私はシニアのクラスに入った。女子は制服、男子はブレザーにネクタイが義務付けられていた。蝶ネクタイをしてくるおしゃれなやつもいた。
金持ちが多かったから、多くの同級生が自分用の車を持っていた。車は主に余暇用だが、ある意味必需品で、車がないとデートのときには誰かに乗っけてもらわないといけない。郊外には公共交通機関がほとんどないのだ。
ジョンは好きな車を決めなさいと言われて、カタログを研究した結果、スエーデンの「サーブ」という車を選んだ。輸入車だから割高なのだが、父親は、それでいいんだね、と言っただけで、ポンと買ってあげた。
これが同じ高校生なのかと衝撃であった。