わが青春のアメリカ―旅立ち

9月19日―ボストンで取材。移動してワシントンDCで取材。

取材に関する話は放送するまで書けないので、アメリカについての昔話をしよう。

私は対北朝鮮「強硬派」とみなされているが、アメリカ政府と一体化した立場ではない。よく誤解されるので、去年出した本にもあとがきでわざわざ、こんな文章を書いておいた。
「読者は、アメリカの金融制裁にエールを送る著者を、根っからの親米主義者だと思ったかもしれない。
しかし、私は若い頃、米軍の相模原補給廠から横浜ノースピアへと運ばれるベトナム行きの戦車に向かって、「ヤンキーゴーホーム!」と拳を突き上げた人間である。イラク戦争には反対であり、自衛隊を派遣したのは間違いだったと思っている。
しかし、残念ながら、いまの国連には国際秩序を形成する力はない。事態を前に進めるためには、超大国アメリカの力が、どうしても必要である。これは、アメリカに対する好き嫌いとは関係ない、「現実」なのである」(拙著「金正日『闇ドル帝国』の壊死」光文社)
とはいえ、アメリカに対しては同時に親しみと尊敬の感情もある。個々のアメリカ人は実に「いい奴」が多いと思う。私の最も尊敬する哲学者は、ケン・ウィルバーという、カリフォルニアの風土が生み出した人物だし、音楽では、アメリカの都会を歌うビリー・ジョエルに心酔している。
アメリカに対しては、いわゆるアンビバレントな感覚を持っている。それはたとえば、親を含めた身内に対して反発を感じる感覚に近いかも知れない。というのは私には青春をアメリカで過ごした過去があるからだ。
私がアメリカに行ったのは1970年から71年にかけての一年間で、AFSという無料で一年間向こうの高校に通える交換留学制度でだった。このAFS出身者には、2年くらい上に歌手の竹内まりやさん、数年後輩にキャスターの安藤優子さんがいる。さらに上の大御所としては、緒方貞子、川口順子、榊原英資の各氏がいると聞いた。
アメリカに行こうと思ったのは、受験一色の日本から離れて、別の自分を試したかったからだ。当時は高校留学は珍しく、山形新聞にも載ったことを覚えている。AFSは都市部では人気が高く、東京はすごい倍率だったらしいが、東北ではあまり知名度がなく、その年、福島県は全県でわずか5人しか応募者がいなかったほどだ。横並びで選べば田舎からは誰も出られなくなるという配慮なのか、日本全体の120人の人数枠のうち、東北6県に7人という割り当てがあった。原則は各県一人だが、2人の定員割り当てをもらう県が順番に回っていくことになる。その年はたまたま山形県が2人出す番で、たぶん30〜40人の応募者から運良く選ばれた。普通の筆記と聞き取りの英語試験のほかは、日本語での面接があった。面接では「一年間一人で暮らせるか」という点が審査のポイントだったようだ。
実は、私はそれまで外国人というものとの付き合いがほとんどない。
ある日、山形市内の通りで、ネクタイ姿の白人の男2人に「聖書に興味ありませんか」と話しかけられ、そのままモルモン教会に連れて行かれた。英語の勉強会をしないかと誘われ、しばらく通ってみたのが、ほぼ唯一の「外人体験」である。その私が、一年間も外人のなかで暮らすというのである。アメリカ行きが具体化すると、さすがに心配になった。
70年の夏、慣れないブレザーを着て羽田から飛行機に乗った。機内食を食べながら席が隣になった女子と「ちゃんとナイフやフォークを使えるかなあ」などと、着いてからの不安を語りあったものである。
同時に、反米気分の強かった私は、「アメリカにのりこんでいく」という気負いもどこかに持っていた。

そのとき私は17歳。緊張に震えながらの旅立ちだった。