金正日体制打倒と外交1

よく、北朝鮮に対しては、「制裁か対話か」という形で議論がなされる。しかし、それは単なる外交の手法、戦術の話であって、本当に大事なのは、金正日体制を崩壊させる「決意」であり「戦略」だ。
(なぜ体制崩壊が必要なのかについては、「金正日体制は平和的に崩壊させるべきである」http://moura.jp/scoop-e/seigen/pdf/20060417/sg060417_kimu_01.pdfに書いたことがある)
外交には押したり引いたり、硬軟さまざまの手法がある。いくら「制裁」を叫び続けても、戦略がなければ、体制崩壊には結びつかない。逆に、戦略に位置づけられた「対話」なら、体制の掘り崩しに効果を発揮するだろう。
西欧諸国は、戦後長く、ソ連・東欧圏に対して、「民主化」という名の体制崩壊を戦略として持っていた。その戦略の下に、さまざまな駆け引きを行なってきた。相互の緊張は高まったり緩和したりし、軍事的に一触即発の時期もあれば、東西の「交流」が全面に出た時期もあった。しかし、西欧諸国は東側の体制の土台を掘り崩す努力を続けてきた。
戦略さえしっかりしていれば、「交流」もまた武器となる。
西ドイツは、東ドイツに莫大なお金を払って政治犯や離散家族の身柄を引き取った。こうした妥協的とも見える措置を採っても、体制を崩壊させるという大きな戦略は変わらなかった。
また、東欧に「離散家族の再会」などとともに「西側の記者の入国」の要求を突きつけたときのこと。西側はさらに記者の入国ビザは「数次ビザ」にせよと注文をつけた。かなり激しいやり取りがあったが、結局それを東側に認めさせた。
なぜ「数次ビザ」という一見どうでもよい要求にこだわったのか。
一度だけのビザでは、西側の記者が批判的な記事を書くと次から入国拒否に合うから、筆が鈍ってしまう。「数次ビザ」を出させることで記者の立場を強め、自由な批判を保証できるのだ。つまり、西側は、この「交流」にしっかりとトゲを潜ませておいたのである。外交施策全体に「戦略」が浸透しているのを感じさせるではないか。
ソ連・東欧が一挙に体制崩壊したとき、レーガンの軍事対決路線にソ連が耐え切れなくなった結果でありアメリカの強硬路線の勝利だとの評価が見られたが、それは一面的だと思う。そのときすでに、体制の土台がガタガタになっていたという事実に注目すべきだ。
アメリカはご都合主義で、ソ連と取り引きに出た時期もあった。これに対してソ連・東欧の直接の脅威下にある西欧は、戦後40年かけて、硬軟取り混ぜた体制崩壊策を繰り出してきた。格闘技で言えば、地味なローキックをこつこつと当て続けてきた西欧の勝利だったのだ。
では、日本政府はどうなっているのか。
最近、一通の手紙が、政府から拉致被害者家族に届けられたことを知った。そして、その手紙の内容を知って私は愕然とした。
(続く)