なんで勉強するの?

「勉強なんか、なんでしなくちゃいけないの?」

時々、思春期の娘から議論をふっかけられる。こういうとき、たいてい娘の口はとんがっていて、挑戦的である。
思えば、かつては自分も同じ問いを大人にぶつけたことがあった。そこには自分へのいらだちや、権威に反抗したい気分も付随していたが、本人にとっては大事な疑問である。

まずは軽いジャブ。
〈学校に行きたくても行けない子どもが、世界中にどれほどいるのか知っているのか?勉強できるだけで幸せなんだぞ。〉

ふんと鼻で笑われただけである。これまでさんざん、〈おかずを残すとは何だ。北朝鮮には食べるものがない子どもがたくさんいるんだ〉などと説教してきたので、娘はすっかり食傷している。
そこで理屈で答えざるをえない。

こういう議論は、「勉強一般」についてだから、現在の具体的なカリキュラムが最適かどうかはとりあえず問題にしない。
二つの方向からの答えがありそうだ。ひとつは大人の社会的役割からの、いわば「俯瞰」の答えである。

「化学式なんか知らなくても生きていけるでしょ?」

〈今の文明の水準を維持して次の世代にバトンタッチしていく義務が、俺たちの世代にはあるんだ。一定数の科学者や芸術家や先生やエンジニアやいろんな人材を養成していかないと、世の中、続いていかないだろ?〉

「べつに私が科学者にならなくてもいいじゃない。好きな人がそういう勉強すれば?」

〈将来誰が科学者に向いているか分からないじゃないか。意外な人に才能があったりするだろ。だからなるべく機会を均等に与えて、誰がなってもいいようにするのさ。例えば、たくさんの子どもにサッカーを教えれば、優れた選手がでてきて水準があがるだろ〉

「私には関係なさそう」

〈関係あるさ。お前たちの世代の社会がうまくいくように、俺たちは、無理やりにでもお前たちに勉強させないといけないんだよ〉

こう力んでも、あまり納得した様子ではない。親と子では、よって立つ「立場」が違うのだ。