戦犯タクマを追って2

ここで、どうして“タクマ”のような青年がいたのか、日本人移民についてふれておきましょう。
 明治期のハワイやブラジルなどへの移民は総勢50万人といわれているほど、大勢の移民がいました。アジアでは、フィリピンが大量に組織的移民を受け入れた国のひとつです。その先駆けとなったのが、バギオに通じるケノン道路建設のためにやってきた“ベンゲット移民”と呼ばれる人々です。フィリピンを植民地支配していた米国が、避暑地バギオに夏の間政府機能を移すため、1901年に着工した全長約41kmの登山道路です。大変な難工事でしたが、日本人の奮闘で4年で完成しました。
 日本人はこのあと、フィリピン各地に散らばります。ミンダナオ島のダバオは日本人移民が特に多かった所で、ここのマニラ麻の栽培に携わったのは日本人移民です。マニラ麻は1930年代のフィリピン輸出品目の第一位を占めていたそうです。邦人の数はさみだれ的に増えていたので、正確な数は不明ですが、1940年頃に約3万人いたと記憶しておられる方がいます。
 大沢清さん(当時のマニラ会会長)の『フィリピンの一日本人から』によると、当時マニラの日本人会には5300人の会員がいたそうです。この当時は経済的にも繁栄しており、エスコルタ(マニラの下町)あたりにも立派な日本人の店がたくさんありました。そして、ちょっとした大きな町には日本人系のバザール(今でいうデパート)が必ずあったり、町の美人コンテストに日系人が選ばれたりしたくらい、日本人が浸透していたようです。先日、イスラムゲリラの取材で南部のホロ島に行ったとき、そこにも立派な日本人墓地があるのをみてびっくりしました。
 日本人の経済進出のすさまじさというのが、当時問題になって、1940年には、移民は年間500人に限るという移民法、1941年の4月には指紋採取を義務付けた外国人登録法が日本人移民への対策として制定されたりもしています。
 そして戦争が始まると、在留邦人、日系人がこれに巻き込まれていきます。
 男子は軍の通訳などで軍属または現地召集で兵隊にとられ、女性や老人、子どもも何らかの形で軍に協力させられました。
 私の知人にネグロス日本人会会長の諸永初子(もろながはつこ)さんという方がいますが、彼女の場合はバコロド(西ネグロス州の州都)の飛行場の食堂でパイロットに給仕する仕事をしていたそうです。また軍の病院での洗濯などの勤労奉仕にも多くの女性が動員されました。
フィリピンには“タクマ”のような人々がたくさんいたわけです。
(つづく)