
今回で二回目の訪問だが、昨年展示リニューアルされてからは初めて。じっくり時間をかけて回り、彼の遺した言葉や文章に接して学ぶことが多かった。

「日本列島の白地図の上に宮本くんの足跡を赤インクで印していったら、日本列島は真っ赤になる」(渋沢敬三)といわれたほど、民俗学者、宮本常一は日本中津々浦々を旅したが、彼の調査にあたっての心構えや留意点は、私たちの取材におけるそれにもあてはまるようで、襟を正される思いがした。
「何かの雑誌に物を書いたとき、ある評者が『百姓根性が抜けない』と評した。その時『そうなんだ、その通りなのだ。私自身にとってはいつまでたっても、どこまで歩いても大切なのはそのことで、その視点と立場から物を見ることを忘れてはいけない』と思った」(『父母の記/自伝抄』)
宮本は、調査に行っては奪うばかりでなく、与えるものがなければならず、ギブ・アンド・テイクは調査の際の一つの鉄則であると考えていた。そして今を生きている人々の姿を忠実に伝え、彼らの良き代弁者になろうとした。
宮本は、例えば離島をよく調査したが、その島を島民とともに発展させるよう尽力し離島振興のオルガナイザーと呼ばれた。故郷の周防大島のある町から町民が結束できるような文化運動をおこしたいと相談されると、「民具を集めて見ることから、ふるさとを見直す運動をおこしてみてはどうか」と提案。老人クラブや婦人会を巻き込んだ町民参加型の民具収集を指導し、この運動からその町(久賀町)に町立歴史民俗資料館が開館した。
宮本は「地元の人たちの立場にたち、地元の人たちのことを心から案じてなされる調査は、意外なほど少ない」と言い、「調査してやる」という意識が強く、はじめから地元に調査費を要求することが多くなっていると嘆いている。また、「テレビ、ラジオ、新聞などで報ぜられる多くのレポートでも、地元の声を代弁しているものはほとんどない」とも指摘している。(『調査されるという迷惑』みずのわ出版)
最終的に調査される地元の人々の役に立つようにすべしということだろう。
「人の身のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかりあるいていくことだ」というのは各地を旅して回った宮本の父親からの教えの一つで、彼自身これに従ったという。『(民俗学の旅』)
これも取材の心構えとして傾聴に値する。
宮本の異常なほどの本好きを示す展示があった。
「時に本などを求めようと思えば、二食をさらに一食に減じ、ついに一日断食ということもあった。そういう時には水腹ですごすのであるが、眼がくらみ足がふらつき、局から家まで三丁の道さえ歩く力が十分でなかった。体重はどんどん減じて十一貫代までおちた。しかし本だけはたえずよんだ。「何とかして立派な人間に」という意欲は常にもえた」(『父母の記/自伝抄』)
1945年7月10日に米軍のB29の空襲があり、焼夷弾で持っていた本がほとんど燃えてしまった。その翌日の7月11日の日記。
「身体がだるい。おくれて役所へ行く。午后早くかへしてもらふ。途中南田辺の中路へよつて4、5冊本を買ふ。また本買ひだ」とある。その一冊が『家族主義の教育』という本で、その本のとびらに「更新1」と記している。蔵書を全部失ってこれからそろえる本の第一号という意味だろう。翌12日も「南田辺で下車してつい本を買ふ気になり70円ばかり買つてしまふ」と綴っている。
また、宮本が書き残したものを全て書籍化すると、優に100冊は超えるといわれている。宮本のフィールドでの調査スタイルは「あるく・みる・きく」だとされるが、その前後に「よむ」と「かく」という膨大なデスクワークがあったのである。
取材においても、ただ現場に出ればよいというのではなく、しっかりと思索すること、着眼点を考えること、それらを文字化して整理することが求められる。
宮本常一について、さらに学ぼうと思った資料館訪問だった。