内橋克人さんの訃報の数日後、色川大吉さんが亡くなったと知った。
日本のリベラルを支えてきた巨人が相次いで鬼籍に入られた。
色川さんは「五日市憲法草案」の発見で知られる。
1968年、今の東京・あきる野市の農家の土蔵で見つかった1881年起草の憲法草案で、全204条のうち150条で基本的人権について触れている。この草案は地元の農民の学習発表をまとめたもので、当時の庶民の権利意識の高まりを示すものとされている。
これを読んで美智子皇后(当時)が感動したという逸話も有名だ。
色川さんは70年代に水俣病の調査を行い、公害問題にも深くかかわってきた。
6月号の雑誌『選択』の巻頭インタビューに色川さんが登場していた。まるで遺言のような内容である。
【コロナ禍という「公害」の教訓】
今般のパンデミックと地球温暖化は、根底でつながっているのではないか。環境変化によってウイルスを媒介する動物の生息空間が破壊されたという因果関係だけを言っているのではない。コロナ禍が世界中の人々に強制的な行動変容をもたらしたおかげで、北京では青空が見える日数が増え、ベニスでは運河の水も澄んだ。コロナ禍と地球温暖化は一本につながっているようだ。ごく短期間に地球規模で人々の行動が変わるのは歴史上初めてのこと。(略)
SDGsには17の目標が盛り込まれているが、実際の優先度は、貧困や飢餓の撲滅、保健と教育の保障の方がずっと重い。だれもが足元の課題のせいで環境問題に手を回せない。私自身が歴史を研究してきた上での結論から言えば、環境問題は被害者が出て初めて、救済が始まるものだ。公害問題は常に先送りされ、結果として自滅を招くことになる。(略)
いつからか「公害」という言葉が使われなくなり、「環境問題」と表現されるようになって、公害はなくなったかのように錯覚している。敗戦ではなく「終戦」、占領ではなく「進駐」と言い換えたのと同じやり方だ。
言葉は人類に不可欠のものだが、使い方によって人を騙す魔術のような力を持つ。地球温暖化と公害の本質は共通している。そして解決しないまま先送りされ、国境を超えて中国、インド、工業化の後進地帯といわれているアフリカや中南米にまで拡散された。公害や気候変動は、豊かになった代償として起きたものではない。順序は逆で、代償を払って豊かになったのだ。惨憺たる犠牲を平然と見過ごして、利用できるものは何でも利用するという利益追求のやり方を優先させてきたからだ。
芦尾鉱毒と闘った田中正造は、百年以上も前に「農民の自治を強化する、国民の自然観をまともなものにする、そうすれば芦尾の悲劇は繰り返されなかった」と二つの本質を述べている。
まともな自然観を失ったことの帰結が、地球規模での気候変動である。最近のコロナ禍もその線上で捉えられるべきものだろう。(略)
人間の飽くなき欲望が、新たなウイルスを生む土壌なのかもしれない。少なくとも世界規模で弱者や貧者に多大な被害を及ぼしたという点で、公害と本質を同じくしているのは間違いない。この機に我々は生きることの意味や、何が正義か、何が豊かさかを考え直さねばならない。新しい価値観や思想が示されなければ、コロナ禍は何の教訓も残さないことになる。
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しばらく前から、「公害」が死語になりつつあることは私も感じていた。「環境問題」という言葉に置き換わって、まるで自然災害みたいに扱うようになっている。要は人間の責任をぼやかそうというのだろう。
色川さんの言う新しい価値観の獲得に向かわなければと思う。
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畑では草むしりと白菜の植え付け。暑さが和らいだので作業は少し楽になった。ただ、最近、膝や股関節が痛くなって、歳を感じる。
オオイヌタデがきれいだ。でも雑草なので抜かれる運命にある。