「藤野先生」再読

 東京の一日のコロナ感染者が3000人を超え、昨日、今日と過去最多を更新し続けている。

 菅首相はどこまでも突っ走るつもりらしい。今の政府を、「負けがこんでしまった博打うちと同じでやめられなくなっている」と評した人(中野晃一教授)がいる。言い得て妙だ。

 五輪で盛り上げて総選挙へ・・との目論見だと言われてきたが、もうそんな段階じゃなくて、まともな判断力を失い、賭け続けるしかない博打うち。最後に一発逆転しないと取り返せない!とばかりに。

 とんでもないことが起きそうで恐ろしい。

・・・・・

 あの「内山書店」が76年ぶりに中国に復活した

f:id:takase22:20210722143152j:plain

上海にあった内山書店

 東京・神田に、中国関係の本を専門に扱う「内山書店」がある。もとは1917年、内山完造・美喜夫妻が上海で創業した。上海店は45年に営業を停止したが、7月10日、76年の時を経て天津に復活した。

f:id:takase22:20210729003708j:plain

天津のショッピングモールの一画にオープンした内山書店。額は郭沫若(かく・まつじゃく)が揮毫した文字で、神田店と同じ

 上海の内山書店は、本を販売するかたわら、本を通じて日中の文化人が交流する場となり、中国の文豪・魯迅も常連客の一人だった当局から追われていた魯迅を内山完造が支援し、かくまったこともあった。

f:id:takase22:20210722143211j:plain

魯迅も常連だった

f:id:takase22:20210722143310j:plain

上海で聞くと、誰もが魯迅と内山書店の関係を知っている。

f:id:takase22:20210722143250j:plain

ちゃんと学校で教えている。日本の学生は知らないだろうな。(現在は銀行になっている上海の書店跡の碑の前で)

 内山書店復活のニュースは1週間ほど前にNHKで知ったが、ここに至るまでには、多くの関係者の熱い思いがあったという。

 一つの大きなきっかけになったのは、内山書店をテーマにした中国のテレビ番組だった。内山書店の内山深社長が上海を訪れたさい、書店を中国に復活させたいとの希望を漏らしたのを、番組ディレクターの趙奇さんが聞き、意気に感じて一肌脱ごう、となったそうだ。

f:id:takase22:20210722143414j:plain

内山深社長が夫妻の碑を訪れた

f:id:takase22:20210722143404j:plain

内山完造・美喜夫妻

f:id:takase22:20210722143426j:plain

趙奇さん。ディレクターをやめて書店復活に奔走したという

f:id:takase22:20210722143443j:plain

趙奇さんは自宅を売る決意までして動き出した。内山深社長もその熱意に応じ協力した。


 趙奇さんが書店の社長になり、東京店と同じ看板でオープン。開店式には魯迅の孫の周令飛さんも参加した。

f:id:takase22:20210722143527j:plain

書店復活には大きな期待が寄せられている

 いい話である。
 私も触発されて魯迅の本を再読した。
 「藤野先生」に感動した。

 当時、仙台の医学専門学校にたった一人の中国人留学生だった魯迅。解剖学の骨学の藤野厳九郎先生は、魯迅を研究室に呼び、「私の講義が、君は筆記できますか?」と聞く。
「まあ、できます」
「もってきて見せたまえ!」とのやり取りのあと、講義の筆記を毎週添削されるようになった。

《私はもって帰ってあけてみると、とても吃驚(びっくり)した。同時にまた一種の不安と感激を覚えた。というのは私の筆記はもうはじめから終わりまで、朱筆ですっかり改められていたからである。多くの脱漏した部分が加えられているだけでなく、文法的な間違いまでも、いちいちみな訂正してあった。このようにして先生の担任の授業が終わるまで、ずっとつづいた。》

 だが、魯迅に転機が訪れる
 講義時間が余ったときに映された日露戦争のニュースの画面で、中国人が銃殺される情景を参観することになったのだ。

《もちろんそれはみな日本がロシアに戦勝する場面であった。だが生憎と中国人がその中にまじっていた、ロシア人のためにスパイをやり、日本軍に捕らえられて、銃殺されることろであった、それを取り巻いて見物しているのも一群の中国人であった、教室にはそのほかにもう一人の私もいた。
「万歳!」と彼らはみな手をたたいて歓呼した。
 この種の歓呼は、画面を見るごとに起こった、だが私には、この声は特別に耳を刺してひびいた。その後中国に帰ってきて、私は犯罪者が銃殺されるのをおもしろそうに見物している人々を見かけたが、彼らも酔えるがごとくに喝采しないことはなかった、・・・―ああ、何たることであろうか!しかしその時その地で、私の考えはすっかり変わってしまった。
 第二学年が終わったとき、私は藤野先生を訪ねて行って、先生に私はもう医学を学ぶことをやめようと思います、そしてこの仙台を離れようと思いますと話した。先生の顔には何だか悲しみの表情がうかび、何かいいたげであったが、とうとう何もおっしゃらなかった。》

 医師になって一人ひとりの命を救うより、民族全体の運命に魯迅の気持ちが移っていった。(医者より水路のほうが多くの人を助けられると考えた中村哲先生と比べてしまう)

《私がわが師と仰ぐ人々の中でも、先生は最も私を感激させ、私を鼓舞激励してくださった一人である。(略)先生の私に対する熱心な希望と倦むことのない教誨(おしえ)は、小にしては中国のためで、つまり中国が新しい医学をもつことを希望されたのであり、大にしては学術のため、つまり新しい医学が中国に伝えられることを希望されたのである。先生の人格は、私の眼と心の中では偉大である。先生の名前は決して多数の人に知られてはいないけれども。
(略)
 先生が訂正してくださった講義筆記を、私は前に三冊の厚い本に装釘して、とっておいた、それを永久の記念にするために。(略)
ただ先生の写真だけは、いまもなお私の北京の寓居の東側の壁に、書きもの卓(づくえ)に向かいあって掛けてある。いつも夜中に倦みつかれて、眠気にさそわれたりするとき、顔をあげる燈光(あかり)の中に先生の黒く痩せた顔をチラリと見る、まるで今にも抑揚ある言葉で何か話し出そうとしていられるかのようである。すると急にまた良心が湧いてきて、そして勇気を倍加させられる。そこで一本の煙草に火をつけて、再びあの「正人君子」のやからが痛く憎悪する文章を書き続けるのである。》                   1926年10月12日

 藤野先生は、のちに魯迅が有名になったことを知らされたが、よく覚えていなかったという。彼にとってはごく当たり前のことをしたという認識だったようだ。
 海外から来た人々に誠意をもって接し、恩にも着せない日本人たちがいた。そういう日本人たちがいたから、外国人との心の絆を結ぶことができたのである。
 
 いまの日本政府のように、海外から若者を使い捨ての労働者として呼び、抑圧から逃れて助けを求めてやってきた人々を捕まえて収容する所業が、藤野先生や内山完造らの精神と真逆にあることはいうまでもない。

 「藤野先生」は今でも学校で教えられているのだろうか。これこそ、愛国心の教育には格好の教材だと思うのだが。