戦争遺跡になった松の木2

 先週、「The Textiles of India – 児島善三郎が愛したインドの布と兒嶋画廊コレクション」で、インド更紗(さらさ)の世界にひたってきた。

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 更紗という言葉からは、懐かしい異国情緒がただよう。
 「染料として茜(あかね)や藍を使い(媒染模様染め、防染模様染めで)様々な文様を色鮮やかに木綿地に染め上げたインドの染物とそこから派生してきた染物を、日本人は長く〈更紗〉と呼んできた」。

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いにしえの世界がよみがえってくる

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こんなに細かい模様をどうやって染めたのか・・

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鏡を組み込んだミラーワーク。災いを避けると信じられていたそうだ

 インドからインドネシアに伝わって「ジャワ更紗」に、さらにオランダによってアフリカ大陸に持ち込まれ、いま日本でも人気の「アフリカン・バティック」へと広がってきた。

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児島善三郎はよく更紗をモチーフに描いている

 古布から昔の人々の魂が漂ってくるようだ。
 こんなにすごい展示が無料! 関心のある方はどうそ。ふだんは「密」にならないので、ご心配なく。

www.gallery-kojima.jp

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丘の上apt (兒島画廊)。異次元の空間である

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 戦争末期、日本全国で、燃料にする目的で松根油や松脂を採取する大キャンペーンが行われていた。それが歴史に埋もれてきたのはなぜか。
 きのう紹介した長野県の上田小県(ちいさがた)近現代史研究会のブックレットから引用しよう。

《アジア太平洋戦争末期、上田小県の多くの村々で松の根が掘り起こされ、松の幹に傷をつけて松脂が採取されたことは、本書が明らかにしたとおりです。それは、当時では日本各地にありふれた光景として見られました。しかし、それだけ日常的にどこでもおこなわれていた作業であったにもかかわらず、今日その実態を伝える文書類などは、ほとんど見あたりません。なぜでしょう。それは、国の指示を受けて出された町村等戦時書類緊急処置に関する長野県当局の指示(1945年8月18日)が出されたからです。そこには、「焼却スベキ文書」として「林務関係、松根隊、製炭隊関係名簿」が挙げられています。中には「焼却ノ予定ナルモ一応保存セラレ度シ」として「非常伐採関係書類」などの通達もあったのですが、ほとんどすべて焼却されてしまったのです》(「おわりに」より)

 戦争関係文書の焼却は、いわゆる慰安婦問題を含め、歴史の検証に困難をきたす原因になっている。それは全国の小さな自治体にまで徹底していたのだへい。
 
 自然保護の市民団体「ヤマンバの会」は、松脂採取の傷痕のある松の木にたまたま遭遇して以来、この問題の精力的な調査を開始。上述の焼却指示文書を上伊那郡の旧片桐村(現中川村)で発掘した。そして一次史料の欠落を、各地の地域史の記述や採取経験者を探しての地道な聞き取りなどで補い、この一大国民運動の実態を解明することに成功している。みごとである。

 国家挙げて本格的に増産体制を整えるために、農商省が「松根油緊急増産措置要綱」を決定したのが1944年(昭和19年)10月23日だった。ところが、旧小県郡塩田村下之郷区では、それより4か月以上も早い同年5月末には「松脂採取ノ件ニ付キ打合セ」がなされ、6月2日には「松脂採取開始ス」と記された日誌などを「ヤマンバの会」は発掘している。
中央での決定の前に、地方では採取の動きが始まっていたのである。
 また、松根油工場が下之郷区に松の「売却代」として「一金、壱千円也」を支払った領収書も入手し、この地区に工場があったこと明らかにしている。これは工場が松を買った形になっているが、一般には、各地区に強制割当てがあり、「山持ち主は無償で掘らせること」(『三好町史』)など、有無を言わせぬ強制力のともなった運動だったという。

 先日このブログで、チェルノブイリ原発事故について書いたさい、震災や戦争などの負の歴史をどう後世に伝えていくかという問題に触れたが、「ヤマンバの会」の調査のような市民参加による「発見」「発掘」感ある取り組みはとてもいいと思う。会員たちはきっと、目を輝かせて自発的に調査に取り組んだことだろう。

 郷土史家の桂木恵さんは、民俗学者宮本常一の「記録されたことだけが記憶される」ということばをひいて、記録として残すことの大切さを指摘しているが、「ヤマンバの会」は調査の結果をきちんと発表し記録していった。このブックレットの出版もその一環だし、上田市教育委員会に全国ではじめて松の木を戦争遺跡として認知、指定させたことも重要だ。

geo.d51498.com

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上田市のHPより


 さて、そもそもこんなキャンペーンがなぜはじまったのか、その背景を知ると、当時の日本の政府・軍部がいかに合理性を欠いた政策立案を行っていたのかが分かり、怒りさえわいてくる。
(つづく)