通りから暮らしが消えた

 立春から15日で節気は「雨水」(うすい)、雪が雨に変わり、雪解けがはじまるころになる。

 この冬、雪が降ったのを見たのは先週金曜を入れて2回だけで、暖冬だった。きょう東京では20℃近くになった。

 テレビニュースで、暖冬のせいで山形県の雪下大根(越冬大根)に被害が出ていると報じられていた。ひと冬、土に埋めた大根を雪に覆われたままにしておくと甘味が増し高値で売れる。ところが雪がすぐに解けて土がむき出しになり、大根が凍ってしまって商品にならないというのだ。自然を相手にする農家は大変だ。

 19日からが初候「土脉潤起」(つちのしょう、うるおいおこる)。大地が潤いはじめるという意味。次候「霞始靆」(かすみ、はじめてなびく)が24日から。春に出る霧が霞で、夜の霧が朧(おぼろ)。3月1日から、末候「草木萠動」(そうもく、めばえいずる)。新しい命が芽生え始める。

 

 中東の旅から

 私とあまり歳の違わないおじいさんが日向ぼっこ。 長い友だち同士のようだ。

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 目が合ったので、「日本から来た」というと、立ち上がって「お茶を飲んでいけ」と家に招き入れようとしてくれる。時間がないのでお断りしたが、実に親切な人が多い。

道ばたで日向ぼっこという光景も日本ではほとんど見なくなった。道が暮らしの場ではなくなってしまったからだ。

 

 石牟礼道子は、子どものころの故郷の町の早朝をこう描写している。

 「庭と呼ぶほどの庭はどの家もございませんでしてね。どの家も道に面していますから、家の前の道を『前庭』と呼んでいまして、前庭の掃除をする。その前庭は町全体のものでございます。それで、自分の家の前庭の掃除をそれぞれするわけですね。お年寄りがしたり子供がしたり、私もよくやっておりました。

 竹箒を抱えて前庭に出てみますと、夜通った馬の糞だとか、酔っ払いたちの吐いたゲロだとかいろいろ、朝見てみると、この道も昨日から夜にかけて、たいへん働いたなという感じがするんです。昨日一日働いて、こんなにいっぱい汚れて疲れているなという感じがするんです。それを掃き清める。みんな出て掃きますからお互い、疎かにできないんです。雑に箒を使って何か掃き残していたら、あそこは雑なものだとひと目でわかりますから、箒の目を立てて、竜安寺の石庭ほどではありませんけれど、そのくらいみんなできれいに念を入れて掃きます。

 しかし、言わず語らず、心持ち越境して掃くんですね。我が家の前を、ここからここまでが隣との境だと線を引いてはありませんので、両方から少し越境して掃く。その気持ちってたいへん微妙ですけれど」(『石牟礼道子全集 不知火 第7巻』P285-286)

 ここには、自動車に占拠され、歩行者が邪魔者扱いされる近代における道路とは全くことなる「共有地」(コモンズ)としての「道」のありようがある。

(つづく)