道元にみる水と私のつながり

武器は買い島の宝はくれてやり  (朝日川柳15日 京都府 矢野茂嗣)

 先週の川柳だが、お上が(いつものように)好き勝手に破壊的な政策を決めている。国民の側には無力感が漂っているようにも感じられる。フランス人のアクティブさはちょっとうらやましい。
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 このところ、一歩間違えると大変なことになる案件が続くと同時に、他人との信頼関係が揺らぐ事態も重なり、非常にストレスの強くかかる日々だ。体は正直で、風邪気味になり疲労感がつきまとう。
 心が折れぬよう、前回紹介した岡野守也先生の「私の名詩選(アンソロジー)」でも読んでから寝よう。西日本豪雨被害のあと、先生が道元の短歌を解説した回があった。(『サングラハ』第160号、7月25日発行より)

 「私たちの体の60%くらいが水で、水なしには生きられない、水のおかげで生きている。水は、海から蒸発して水蒸気になり、雲になり、それから雨や雪になり、川になり、地下水になり、やがて海に帰っていく。そしてまた・・・という水循環・水の巡りのなかに私たちのいのちの営みもある。水と私は分かちがたくつながっている。水と私の間にも縁起の理法が成り立っている」と、西日本豪雨前の講座で学びました。
 話の終わりに「次の道元禅師(ぜんじ)の歌は、禅定(ぜんじょう)による、そのこと―水と私のつながりさらには一体性―の直観的把握を詠ったものです。美しい歌ですね」と紹介しました。

聞くままにまた心なき身にしあれば
  おのれなりけり軒の玉水(たまみず)

 自他分離の心=分別知(ふんべつち)のない・無心の境地にあるので、軒から落ちる水滴も聞くまま・あるがままに自己と一体であると覚られ・感じられる、といった意味でしょうか。
(略)
 水そして大自然のすべてと分かちがたくつながっている人間は、水と大自然の恵みによって生かされていて、それなしに生きることはできません。そしてまた、分かちがたくつながっているために、水と自然の災いにも遭わざるをえません。恵みだけであればどんなに好都合かと思うのですが、自然は人間の都合に合うように存在しているわけではないようです。自然は、時に与え、時に奪います。
 ただ鎌倉時代とちがって、近年頻発している記録的大雨、猛暑、冬の大雪、寒波・・・は、ほぼすべて気候変動の現われだと思われます。そして気候変動は分別知による産業文明という人間の営み・行為・業(カルマ)がもたらしたものであることも確かのようです。個人として直接の責任はなくても、人類の一員としていやでも影響を受けてしまうのです。
 唯識に「共業(ぐうごう)」という概念があります。そして重要なのは、個人の業(カルマ)と同じく共業=集合的業(カルマ)も浄化可能だということです。・・思わず、名詩選が講義になってしまいました。