日本が「悠長」だったころ

 肌寒くなったのに、線路際にはまだ白いアサガオががんばって咲いている。月半ばでもう資金繰りがきびしいが、こっちもガンバロー!
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 ソウルの地下鉄で、赤の他人なのにすぐに親しくなったおばあちゃんたちを見て、昔の日本にも親密なコミュニティがあったことを思い起こした。それで渡辺京二『逝きし世の面影』を拾い読み。

 この本は、江戸末期から明治初期にかけて日本に滞在した欧米人の観察をまとめたものだが、彼らが描く「社会全般にみなぎる悠長さ」はとても魅力的である。

《(幕末から15年滞日した)ブラックが昔の東海道の旅人について書いている。「平民たちは歩きやすいように、着物を端折り、大部分の者はかなり容易に旅していた。そして道ばたに数えきれないほどたくさんの茶店や休憩所で、たびたび立ち止まり、一杯のうすい茶を飲み、自分と同様に、一休みに立ち寄った者と、誰かれ構わずに陽気にしゃべって、元気を取り戻していた。彼にとっては道のりなど考えになかったようだった。好きなように時間をかけ、自分なりの速さで、行けさえすれば(大体出来たのだが)、来る日も来る日も、一日中歩いた。時間の価値など全く念頭になかった。商取引きの場合でさえ、ヨーロッパ商人の最大の当惑は、時間どおりに契約を実行させるのが難しいことであった。いや不可能だったといった方がよいかもしれない」。社会のリズムはゆったりと脈打っていたのである。
 明治政府の法律顧問として、明治5(1872)年から4年間在日したブスケは、日本人の勤労のエートスについて次のような評価をしている。「日本人の働き手、すなわち野良仕事をする人や都会の労働者は一般に聡明であり、器用であり、性質がやさしく、また陽気でさえあり、多くの文明国での同じ境遇にある大部分の人より確かにつきあいよい。彼は勤勉というより活動的であり、精力的というより我慢づよい。日常の糧を得るのに直接必要な仕事をあまり文句も言わずに果たしている。しかし彼の努力はそこで止る。・・・必要なものはもつが、余計なものを得ようとは思わない。大きい利益のために疲れ果てるまで苦労しようとしないし、一つの仕事を早く終えて、もう一つの仕事にとりかかろうとも決してしない。・・」》
(P243)

 渡辺京二は、このブスケの言い分が「いわゆる発展途上国の近代化の困難について歎く、今日の先進国テクノクラートの言い分」にそっくりで驚くという。

 「東南アジアの人は時間にルーズで困る」などと商社マンがよく飲み屋で優越感たっぷりに話しているが、150年前は、欧州の商人は日本人に「時間どおりに契約を実行させるのが難しい」と嘆いていたのである。
 日本人が時間を守るようになったのは、明治時代の「富国強兵」を掲げた強力な近代化政策のなかで、軍隊、工場、学校などで訓練・調教された結果であり、世間で言われる「国民性」はわずかな期間で変わっていくことに気づかされる。
takase.hatenablog.jp

 また、当時の日本人は実に陽気で人懐こかったようだ。
 カンボジアに村を作った森本喜久男さんが、織物の実演のため村の名人のおばあさんを日本に連れてきたときのこと。東京の山手線のなかで、おばあさんが森本さんに尋ねた。「なんで、みんな怒ってるの?」と。電車の中で、一様に笑顔なく押し黙っている人々が、彼女には怒っているように見えたのだ。
 150年前との隔たりの大きさよ・・