パレスチナのガザで、イスラエル軍の銃撃により殺された人の数は62人、負傷者は3000人にもなるという。
15日、国連安保理は緊急会合を開いたが、《米国のヘイリー国連大使は「米国民を代表し、安全保障理事会で、建国70年の偉業を達成したイスラエルの友人たちをたたえたい」と述べ、演説を締めくくった。(略)会合冒頭の犠牲者への黙とうに参加せず、終盤のパレスチナ自治政府の国連大使の演説にあわせて議場を立ち去った》という。(毎日新聞)
米国の孤立が進む一方、パレスチナではいっそう無法がまかり通ることになる。
きのうの朝日新聞「天声人語」で、フリージャーナリストの藤原亮司さんの『ガザの空の下』が引用されていた。この本は、藤原さんが2002年から15年まで地道に取材を重ねてまとめたものだ。
藤原さんは、シリアで拘束されて来月3年になる安田純平さんと親しく、安田さん解放のための努力を続ける一人である。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20160608
パレスチナの置かれた状況は、報道が少ないこともあって見えにくくなっているが、それがどれほど絶望的なものかを、藤原さんの本に登場する人々から紹介してみたい。
藤原さんは02年にガザに行ったとき、宿泊した「アダムホテル」の従業員のサミールと友人になる。
《サミールは2001年に結婚し、妻のお腹の中に8カ月の子どもがいるという。仕事は月に十日ほど働けるこのホテルだけで、生活は苦しいと言った。1987年に第一次インティファーダが始まって以来、イスラエルによるガザ封鎖が徐々にきつくなり、2000年9月に第二次インティファーダが勃発すると、ガザとイスラエルの間の人や物資の出入りは極端に制限されるようになった。
それまでイスラエルへの出稼ぎで収入を得ていた多くの人が仕事を失い、またイスラエルの下請けをしていた工場は稼働停止、農作物の出荷もできない。町には失業者が溢れていた。仕事の少ないガザでは数人で一つの仕事を分け合うしかないため、サミールも毎日働くことができないのだ。》(P39)
2005年2月のパレスチナ自治政府のアッバス議長とイスラエルのシャロン首相の間で停戦協定が結ばれたが、これは圧倒的なイスラエルの力にインティファーダが制圧されたことを意味した。パレスチナとイスラエルとの経済的結びつきは切り離され、ガザへのモノの出入りはもちろん電気やガスもイスラエルのさじ加減ひとつで決まる状況が強まった。
サミールが藤原さんに言う。
《結局、前よりもパレスチナが小さくなっただけだ、とサミールは言う。
「オスロ合意でもインティファーダでも、結局何も良くならなかった。4年半も戦争をして変わったことといえば、ガザは前よりも封鎖が徹底され、西岸地区では入植地が広がったことだ。前にも言ったとおり、誰もイスラエルにはかなわないんだよ」
8月から9月にかけて、ガザにあるすべてのユダヤ人入植地とイスラエル軍駐屯地の撤収が予定されていた。取材を終えた私がガザを去るとき、サミールと入植地撤収について話した。
「これからは入植地からの攻撃もなくなるし、占拠されていた土地も戻る。少しは平和に暮らせるかな」
私の言葉に、サミールが首を振った。
「フジ、お前本気でそう思ってんのか?入植者と軍がいなくなっても、ここが占領され、閉じ込められている状況が変わるわけじゃない。“危険な監獄”が“安全な監獄”に変わるだけだ。パレスチナ人が殺されるから世界のメディアが取り上げてくれ、おれたちがどんな状況にいるかを知ってもらえる。まあ、だからお前も取材に来てるんだし、分かるだろ」
ガザはいつの頃からか、「空の見える監獄」と呼ばれていた。命を奪われる危険が少なくなったところで、そこから出ていく自由もないままに暮らし続けることに変わりはない。
「おれたちは、人が殺されなくなっただけの“安全な監獄”に閉じ込められ、誰にも関心を持たれないまま、家畜のような暮らしを続けるだけのことだ。フジ、ガザのことがニュースに取り上げられなくなって世界から忘れられても、お前はそれでもガザを気にかけてくれるか?」》(P103-104)
サミールの「予言」は当たったようだ。日常的な流血がなくなったパレスチナには国際社会の関心が薄れ、真綿で首を絞められるような見えない抑圧が構造化した。
2008年夏。
《以前は海外に出て自分の能力を試したいと話していた彼も、三人の父親になっていた。今も海外に出たいという思いは捨てきれないが、「現実的には無理だ」。彼はもうすぐアダムホテルを辞め、これまで貯めた金で海岸沿いに小さなカフェをオープンさせるのだと話した。
「海外でレストランを経営する夢があったが、今の暮らしではこれが限界だ。それでもおれには、子どもたちとの幸せな暮らしがある。収入は少ないが、これで十分じゃないか、と思うこともあるよ」
サミールは個人の生き方すら占領下にあるのだと言う。
「お前の国では親は子どもに夢を持てと教えるだろう。おれだってそう言ってやりたい。でも、ガザで夢が叶うことは絶対にない。自分の将来を選ぶ権利はパレスチナ人には与えられていないんだ」(略)
「ここでは何かに期待するだけ無駄だ」。彼も多くのガザの人たちと同様に、乾ききった諦観の中で日々を過ごしていた。》(P218-221)
(つづく)