人類はみんなアフリカ人だ 3

 さて、日本列島にはいつ、どのようにして人類がわたってきたのか。分子人類学者で国立科学博物館副館長(兼)人類研究部長、篠田謙一さんの言うところはこうだ。
 三つのコースで大陸から渡ってきたと考えられている。
 一つは、朝鮮半島対馬を経由するコース。およそ4万年前、「地球は氷期の最中で海面が低くなっており、対馬海峡は“ちょっと大きな川”ぐらいのイメージで(略)九州に足を踏み入れたと考えられている」。
 二つ目は台湾〜琉球列島コース。那覇市で3万7千年ほど前の人骨が発見されている。
 三つ目はシベリア〜北海道コース。3万〜2万年前、最後の氷河期の最寒期を迎えていた北海道は大陸と陸続きだった。
 驚いたのは「均一な縄文人がいたという発想は間違いだ」という篠田さんの言葉。三つのルートからやってきた人々がそれぞれ各地に適応した生活をしていて遺伝子も琉球、西日本、関東、東北、北海道と地域で特徴が異なるという。つまり縄文そのものが、“多様な集団の共生・混血によって生まれた社会”だったというのだ。列島全体に同じような「縄文人」なる人びとがいたという私のイメージがひっくり返された。
 その後、渡来系弥生人が入ってきたが、縄文人と争った形跡はないという。ただ、農耕民の弥生系の人々は食糧を備蓄できることもあって、人口が増え、現生人類(ホモ・サピエンス)がネアンデルタール人を飲み込んでいったように、人口差で縄文人を圧倒していったようだ。結果、今の日本人の遺伝子は7〜8割が弥生人由来で朝鮮半島や中国の人たちに遺伝的に近い。しかし同時に、現代日本人のミトコンドリアDNAの「系統は20種類以上になり、東南アジアや大陸中央部(D4,D5など)、北方にルーツがある人(GやA)、あるいは日本列島でしか見られない系統の人(N9b,M7a)まで豊かな多様性が今も引き継がれて」いる。
 北海道では縄文時代の後、南から本土の人々が、北からはオホーツク文化人が入ってくるダイナミックな動きの中で独自の遺伝的多様性とアイヌ文化が生まれた。沖縄では海の存在によって農耕民の流入が穏やかだったため、今も縄文を代表するミトコンドリアDNAの系統(M7a)が20%以上の人に受け継がれている(本土現代人では7%程度)。
 「結局、日本列島は大陸の一番へりにあり、南北に長い距離を持っていますから、北から南からみんな入ってこれる。いろんなところの遺伝子が集まって共生する“遺伝子の袋小路”なのです」。
 拡散するホモサピエンスの遺伝子の袋小路あるいは吹きだまりが日本列島であり、ここでは様々な系統の人々が混じって混じって混じりあいながら共生してきた。私がかつて描いた「日本列島人」のイメージがより豊かになってくる。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20121202
 私たち日本列島人は多様性こそが本質なのである。そしてその多様性のおおもとは、といえばみなアフリカに発している。篠田さんによると、人類学者は「人種」という言葉自体を使わないという。
 「自由に婚姻できる人間に人種の違いなんてあるわけがない。現代で人種差別と呼ばれるものの多くは文化や宗教の違いからくるもので、生物学的な違いではない。そこに生物学的な差を見いだして正当化しようとしているだけなのです。元々現生人類はアフリカで誕生し、6万年前に世界に広がっていった。そのことをみんな理解できた時、もうすこし世の中息苦しくなくなる気がしますね」。
 ここからは、ヘイトスピーチなど出て来るはずがない。
(以上、参考、引用はビッグイシュー 326号特集「日本人の起源、土偶の宇宙」より)