ロシア革命100年 あれは何だったのか2

 いつもの通勤路の線路そばの道に山茶花(さざんか)が咲いている。
 もう立冬。暦の上では冬である。毎日出かけるときにはマフラーを巻いている。カンボジアの「伝統の森」で作られた絹のマフラーだ。
初候は7日からで「山茶始開」(つばき、はじめてさく)。「つばき」と読むが、実際は「さざんか」の花が咲きはじめるということ。12日からの次候は「地始凍」(ち、はじめてこおる)。霜や霜柱ももうすぐか。17日からは末候の「金盞香」(きんせんか、さく)。金盞(きんせん)とは金の杯で、黄色の冠をつけた水仙の花の別名だという。立冬の三候のうち二つが花にちなんでいるのはおもしろい。

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 あらためてロシア革命を振り返ってみると・・・
 第一次世界大戦に参戦してロシア帝国は疲弊し、都市部は食糧不足となり、厭戦気分が高まっていた。首都ペトログラードでは労働者のデモ、兵士の反乱が起きた。社会主義者たちは工場や部隊からの代議員によるペトログラード労働者・兵士ソヴィエト(評議会)を成立させた。この動きの中で、専制政治を批判してきた、自由主義者を中心とする国会議員たちは、皇帝ニコライ2世に迫って退位させ共和制を実現した。これが2月革命である。
(1917年2月デモ)
 自由主義者が中心となり、立憲主義、議会主義をめざして新しく臨時政府が作られた。ただ、戦後秩序でロシアの地位を確保するためにも、戦争から離脱することはできなかった。社会主義者たちも早期の戦争終結を望んでいたが、英仏との関係の悪化を怖れて、即時講和を掲げなかった。
 革命に期待した民衆は、戦争が終わらず、暮らしも良くならないのに失望し、労働者は工場経営に力づくで介入。兵士は大量に脱走し、農民は地主から土地を奪って自分たちで分割した。臨時政府は憲法制定会議を招集し、そこで法律を制定して社会問題を解決するよう呼びかけたが、民衆は待っていられない。社会主義者は内戦を怖れ、臨時政府および自由主義者と手を切ることはしなかった。
 社会主義者の中には様々な潮流があったが、その中のレーニン率いるボリシェヴィキだけは、臨時革命政府打倒と戦争の即時終結を呼びかけた。2月革命時点では小さな勢力だったが4月にレーニンが亡命地スイスから帰国したのを機に、労働者と兵士の間での支持は高まっていた。農村では、農民中心の社会主義を目指すエスエルの人気が高かったが、首都の動向には直接影響しなかった。
 7月初頭、出征を嫌がる首都守備隊が反乱直前までいった7月事件が起きると、ボリシェヴィキも弾圧され、レーニンフィンランドに逃げた。首相は自由主義者から、民衆に人気の高いエスエルのケレンスキーに替わった。だが、彼への支持も続かず、兵士の士気は落ち続けた。最高司令官コルニーロフは、首都に戒厳令を敷き、民衆の運動を一気に抑え込もうとした。ケレンスキーの合意も得たが、土壇場で行き違いが生じ、両者は対立。コルニーロフの「反乱」を打倒する過程で民衆の政治意識は先鋭化し、ボリシェヴィキも息を吹き返した。潜伏中のレーニンの主張を受け、ペトログラード・ソヴィエト議長、トロツキー武装蜂起の準備を進めた。
トロツキー
 10月25日、ボリシェヴィキを支持する兵士、武装した労働者がペトログラードで蜂起し、臨時政府を打倒した。同時に開かれた第2回全ロシア労働者・兵士ソヴィエト大会で、全面講和を呼びかける「平和に関する布告」、土地の私的所有を廃止する「土地に関する布告」が出され、レーニンを首班とする新政府「人民委員会義」が選出された。これが10月革命である。
 臨時政府の約束を引き継いで憲法制定会議の選挙を11月に実施したところ、農民を基盤とするエスエルが第一党になり、ボリシェヴィキは、都市部と前線(兵士)の表では1位だったものの、全体では第二党に終わった。1918年1月、憲法制定会議でソヴィエトが提出した労働者人民と被抑圧人民の権利宣言が否決されると、レーニンは会議を一日招集しただけで封鎖、解散した。3月にはドイツなど同盟国と、単独講和であるブレスト=リトフスク講和条約を結び、多くの版図と賠償金を犠牲にして第一次世界大戦から離脱した。
 10月革命、憲法制定会議の解散、ブレスト講和、いずれも自由主義者と多くの社会主義者には受け入れられるものではなく、1918年半ばから厳しい内戦が始まった。都市では食糧不足や労働動員に労働者が抗議し、農村では徴兵と苛酷な穀物徴発に農民が反発した。レーニンはこれに銃口をもって応えた。歴史の法則を正しく理解している自分たちには、そうする資格があるということだった。こうして非常に統制的な、ボリシェヴィキのロシアが作られていく。
 

 こうしてみると、きわめて強引に、権力を取るに至った経緯がわかる。革命というより、クーデターと言った方が実態にあっているように思う。そしてこの革命権力は恐ろしい殺戮機関となっていくのである。
(つづく)
ロシア革命の記述は、池田嘉郎「世界史の中のロシア革命」(歴史地理教育11月号)を参考にしました。