カズオ・イシグロはなぜ英国人になったのか

 きょうは本当に久しぶりにからりと晴れた。朝から国立市で小学生たちの野外活動の見学と取材をした。
 国立市は、駅前から南にのびる大学通り一橋大学の前)とそれに交差するさくら通りに400本の桜並木がある。公園や川の土手などではなく、住民の生活圏にある桜で、ここまで見事なのは全国でもなかなかないだろう。この町に、大谷和彦さんという、私が日本一と思う桜守がいる。大谷さんは市内各校で自然教育の授業もしており、きょう、それについていかせてもらったのだ。午前は、湧水の流れる川の探検。午後は大学通りでの桜の保護活動。きょうは午前の部をちょっと紹介したい。

 国立市の近辺には湧水が多い。多摩川が武蔵野の台地を削り大きな段差のある河岸段丘を形成した。崖線の崖下にはいくつもの湧水が透き通った流れをつくり、このあたりではわさび畑を営む農家もあったという。

 子どもたちが自然に親しむ授業として、大谷さんが連れてきたのが、ママ下湧水と呼ばれるところ。稲刈りの田んぼが拡がるそばで、全員川に入って、各人テーマをもって生物観察をする。あちこちから「魚がいたぞ」「捕まえた」と声が上がる。

 「この虫なんていうの」、「ハヤはどこ探したらいますか」、大谷さんは、子どもから質問攻めにあう。冬も、子どもたちを川に入れるという。普通の川よりも湧水がはるかに暖かいことをはじめ、子どもたちは自然の不思議さを五感で感じていく。
 久しぶりに大きな歓声を上げる子どもたちを見て、こちらもうれしくなった。(つづく)
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 きのうの美智子皇后の回答のなかに、「文学賞は日系の英国人作家イシグロ・カズオさんが受賞され、私がこれまでに読んでいるのは一作のみですが・・・」とあった。カズオ・イシグロではなくイシグロ・カズオと記したのは、なぜなのだろう。
 ところで、カズオ・イシグロはなぜ英国人になったのか。気になっていながら調べないでいたら、高校の同期で、朝日新聞論説委員をしていて今は郷里に帰っている長岡昇君がブログに書いていたので、引用、紹介する。

 父親の石黒鎮雄は1920年に商社員をしていた石黒昌明の子として上海で生まれた。戦前、陸軍航空士官学校で学び、その後、九州工業大学を卒業して東京大学で博士号を取っている。博士論文のタイトルは「エレクトロニクスによる海の波の記録ならびに解析方法」。 彼は「潮位と波高の変化」を研究テーマにした。たとえば、ある海域で海難事故が多発するのはなぜなのか。それを調べるため、その海域の海底を模したモデルを作り、実際に起こる波を再現してみる。そして、その成果を踏まえて、現場の海底に消波ブロックを設置して流れを変え、海難事故を減らす、といった業績を上げている。長崎海洋気象台にいた時には、地元の人たちが苦しめられていた長崎湾の海面の大きな変動の解明にあたったりもしていた。
 その研究成果に注目したのがイギリス国立海洋研究所の所長、ジョージ・ディーコン。1960年当時、イギリスは北海油田の開発に躍起になっていた。第二次大戦で国力を使い果たし、戦時国債の支払いに追われる国にとって、石油を自力で確保することは最優先課題の一つだったからだ。問題は、油田が見つかった北海が荒れ狂う海だったこと。海底油田を採掘するためには、巨大なヘリポートのような石油プラットホーム(掘削櫓)を建設しなければならない。その建設自体が至難の技。しかも、完成後は、どんなに海が荒れ狂っても、壊れることは許されない。大規模な海洋汚染を引き起こすからだ。

 苦難に立ち向かうイギリスは、世界中の英知を結集することにした。そのリサーチの目が石黒鎮雄の論文に辿り着き、彼を国立海洋研究所に招くことになった。鎮雄はその招聘に「研究者としての冥利」を感じたはずだ。渡英した1960年当時、若者の留学はともかく、研究者が家族連れで海外に出て行くことは珍しいことだった。妻静子と子ども3人(カズオ・イシグロと2人の姉)を抱えての海外生活。期するところがあったに違いない。家族が日本に一時帰国したがっていることは分かっていても、それに応じる余裕はなかったのだろう。波の研究者として生き、2007年に没している。

 イギリスを石油輸出国にした北海油田。その開発の苦しみが石黒鎮雄をイギリスに引き寄せた。幼いカズオ・イシグロは父の転勤に翻弄され、異様なほどに長崎を懐かしみ、日本に焦がれる少年になった。
 長岡君は、ブログを「父と北海油田の出会いが時を経て、イシグロワールドを醸し出したのです。この世の巡り合わせの不思議さを感じさせる物語でした。」と結んでいる。おもしろい。