きょう見かけた花。
紫蘭(シラン)。日本、台湾、中国原産だそうだ。街中で栽培されているのはよく見るのだが、「野生のものは準絶滅危惧種」とは知らなかった。そろそろ花の時期も終わりだ。
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「共謀罪」の趣旨を含む組織的犯罪処罰法改正案については、地方から「懸念」の声が寄せられていた。3月21日に法案を閣議決定したのを受けて《多くの新聞が翌22日朝刊などの社説・論説で扱った。全国紙は論調が分かれたのに対し、主要地方紙は大半の30社以上が懸念を表明した。》(毎日3月30日)
また、地方議会で、反対や慎重な審議を求める意見書が相次いで可決され、22日までに57自治体が国に意見書を送ったという。(なぜか、長野県が21自治体と突出して多い。)
《沖縄県中城村議会は今月9日、廃案を求める意見書を賛成多数で可決した。米軍基地への抗議行動への影響を懸念し、「沖縄県民の正当な反基地、平和運動が真っ先に『テロ等準備罪』の標的となり、激しい弾圧の対象となるのは火を見るより明らか」とした。》(朝日22日)今の沖縄の住民運動への弾圧を見れば、この懸念はもっともだ。
しかし法案はきのう、衆院本会議であっさり可決された。
国会前では抗議の集会が連日開かれているが、安保関連法案の時と比べれば参加者の数はだいぶ少ない。安倍内閣のやりたい放題。これだと憲法改正もむずかしくないだろう。
ところで、国会前で何種類かのビラを受け取ったが、その一枚がこれ。「革マル派」だ。こんなところにもまだ出没しているのか。住所を見ると早稲田鶴巻町、やっぱり早稲田に本拠地があるのか・・・
そこで、きのうのつづき。
革マル派の暴力で早大文学部キャンパスに入れなくなった山村政明さんには、長年、姉のように慕った信頼するクリスチャンの友人がいた。
自死したのが1970年の10月だが、その前の年69年暮れに彼女に送った手紙が『遺稿集』におさめられている。そこには、彼のストイックで一途な思いが溢れている。
「大学ではあいかわらず学生運動に没入し、そのために生活が破産しつつあるといえます。政治家になろうとは夢にも考えたことはありませんが、人間の生き方としての学問を志す時、学園や社会の矛盾とくに自治会の非民主的、暴力的運営というものをぼくは黙過することができません。
いわゆるトロツキスト、暴力学生の一大セクトである革マルの最大拠点校である早大文学部において、今や彼らをリコール寸前まで追い込んだのですが、未だ決定的な勝利の見通しはたちません。学外の人には理解できないことでしょうが、ぼくたちはこれまでの闘いをふり返って、もし敗北したとしても尊い何かがあったことを否定できません」
「来年はいよいよ七〇年、どんなできごとが待っている、ぼくの将来はどうなるのか、わかりませんが、自己一身の幸福追求だけでなく、よりよい社会の建設をめざしてぼくも闘い続ける覚悟です。
よいお年をお迎え下さい!」(P237-239)
山村さんのような勇気ある人々の闘いの延長上に、その思いを引き継ぐ形で樋田さんたちが登場した。歴史は一見、大量の徒労の沈殿物のように見えるが、こうして捉えなおせば、そこに水脈があるのを感じる。
「川口大三郎君追悼資料室」というサイトがある。川口君事件の後の学園民主化闘争に参加した人々は、あれで人生が変わったと思っているという。そして、いまだに「総括」がなされていないとも。
www.asahi-net.or.jp
私も、「赤報隊」を追う樋田記者の話からはじまって、こんな文章を書いているわけだから、あの挫折した運動に、強いこだわりをいまだに持ち続けているのだろう。
いったんほぼすべての自治会役員の革マルをリコールして新生自治会を立ち上げ、民主化は成功したかに見えた。
しかし、革マル派は暴力支配を諦めずに反撃してきた。これに対抗する形で、社青同解放派や中核派が早大に全国動員をかけて革マル派と武闘を繰り広げ、学生たちは「行動委員会」をつくって自衛のためヘルメットをかぶって革マルに対峙した。
だが、革マルの「軍事力」と大学当局の不作為によってキャンパスはふたたび暴力で支配される結果に終わった。その過程で、樋田さんのように授業を受けられなくなる人、負傷して実家に戻る人、絶望して退学する人もいた。
こう書いていくと、権力移譲を求める平和的なデモが武力で弾圧された末に、先の見えない内戦へと突入していったシリアを連想する。規模の大小はあっても、人の運動のメカニズムには共通するものがありそうだ。
(つづく)