おや、玄関にかっこいい注連飾り(しめかざり)がかけてある。実にいい。
かみさんが吉祥寺で買ってきたのだという。
森崎偏陸(へんりっく)さん―寺山修司の養子―が毎年、この時期に手作りの正月飾りを売っていて、直接本人から購入したそうだ。かみさんと2ショットの写真を見せてもらったが、偏陸さん、ただ者じゃない目力だった。
この松ぼっくりは、偏陸さんが青森県三沢の寺山修司記念館の松林から拾ってきたという。そんな事情を知ると、北国の暗い冬空にイメージが広がっていく。
この注連飾りで思いだしたのが、カンボジアの森本さんの村で作られる絹絣。あの畑の桑の葉で育った蚕から糸を引いた人、染め手、括り手、織り手までみな素性がはっきりしている。布の一枚一枚に小さなタグがつけてあって、括り手、織り手の名前が書いてあるから、村に行けば作った人に会える。
いま我々の身の回りのものはほとんどが誰がどこで作ったかも分からないものだ。だからすぐにポイとすてて代わりのものを買う。だが、「もの」はその由来が分かってはじめて愛着がわき、大切にするのではないか。
ところで、注連飾りは門松などと同じく、年神を迎えるための依り代(よりしろ)とされる。依り代とは、鳥が止まり木にとまるように、神さまが降りて来やすいようにと設けられるものだ。さらにその起源は、天の岩戸にあるという。
太陽の神である天照大神が、弟の凶暴さに怒って岩屋へ閉じこもり、世の中が真っ暗になってしまった。困った神さまたちが計略を立て、岩屋の前でおもしろおかしい宴を演出し、その騒ぎに気を引かれて出てきた天照大神を引っ張り出すことに成功。二度と閉じこもらないように岩戸にしめ縄を巻いて開けられないようにしたという。これがしめ縄のはじめだとか。
4年ほど前に神社の本(『神社は警告する〜古代から伝わる津波のメッセージ』講談社)を書いたとき、神道について学んだのだが、神道の世界はとても興味深く、また、いかに私たちの暮しに神道的な感性が入り込んでいるかに驚かされた。
一から学んでみたいと思う方、初心の方には、神社検定公式テキスト1『神社のいろは』あたりがお薦めです。
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会社用と自宅用の年賀状書きをしている。毎年煩わしいと思いながらも続けているのは、せわしい世の中で、切れそうになる親戚や知人との絆を確認する意味を感じているからなのだろうか。
今年も喪中ハガキが何枚か来た。喪中というのも神道から来ているそうだ。喪中の範囲は二親等(兄弟姉妹、祖父母、孫)までで期間は1年だという。私の亡父は8人兄弟で母は6人兄弟。両親のように兄弟の多い人は、高齢になると毎年のように喪中になってしまう。
喪中でそのまま賀状のやり取りが途絶えた人もある。以前から、この習慣、何とかならないものかと思っていた。すると、今年こんな文面の喪中ハガキをいただいた。
新年のご挨拶にかえて
皆様にはお健やかにお過ごしのことと存じます
喪中につき年始のご挨拶は失礼いたしますが
皆様からの年賀状は楽しみにお待ち申し上げております
今後ともよろしくお願い申し上げます
これはいいなと思ったのだが、みなさんはどう感じるだろうか。
喪中というのは、本人が慎んでいればよいのであって、他の人が健康や幸運を祈ってくれるのを拒む必要はないのではないか。
家が喪中になったら(縁起でもないと叱られそうだが)、この文面にしよう。