処暑(しょしょ)という節季に入った。
処とは止まるという意味で、暑さが少し和らぐ頃とされる。23日からが初候「綿柎開(わたのはなしべ、ひらく)」。明日28日からは次候「天地始粛(てんち、はじめてさむし)」で秋の気配が感じられるころになる。きょう東京は一日雨で、夕方は肌寒いくらいだった。
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相模原市の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」の殺傷事件。いろんな識者がコメントを出すなか、福島智さんの指摘が問題の根をずばりと突いていると思った。
福島さんは小学生で視覚を、高校生のときに聴覚も失い、盲ろう者として初めて大学に入学、現在は東大先端科学技術研究センターの教授だ。
福島さんは、障害者に対する差別は、人種や性を理由にした差別とは異なり、それは一般社会につながっているという。
《例えば、人種の違いによって生じる差別意識は、肌の色や骨格や容貌の違いなどによって引き起こされる、なんら本質的な根拠のない「上辺にとらわれた」差別です。
女性差別も、一定の肉体的な条件の違いはあるものの、現代社会で最も重視される能力である知的能力においては、男女間に何の差もないため、やはり本質的な根拠はありません。
したがって、これらの差別は、少なくとも理論的には、いずれ克服可能な差別だと思われます。
一方、重度の障害者への差別とは、現代社会に要求される生産能力(知的能力)の低さに対する差別です。
現代社会で要求される生産能力は、記憶力・情報処理力・コミュニケーション力などに代表される、知的諸能力に基礎を置いています。
こう考えると、私たちの中に、重度の障害者への差別は「差別ではない。当然の区別だ」と考える意識が生まれるのではないでしょうか。
しかし、大切なのはここからです。こうした障害者の「(知的)能力の低さ」をどう扱うかは、障害のない人間同士での能力の差をどう考えるかということと、根っこはつながっています。
ここで容疑者の犯行について再度考えてみましょう。確かに容疑者の考えは極端であり、その犯行は残酷で恐るべきものです。しかし、私たちと容疑者がまったく無関係だとは言い切れないと、私たち自身が、心のどこかで気づいてしまっている面があるのではないでしょうか。
容疑者は、重度障害者の存在は経済の活性化を妨害すると主張していました。こうした考えは、私たちの社会にもあるでしょう。労働力の担い手としての経済的価値で、人間の優劣が決められてしまう。そんな社会にあっては、重度障害者の存在は大切にされず、軽く見られがちです。
でも、本当は、障害のない人たちも、こうした社会を生きづらく、不安に感じているのではないでしょうか。
なぜなら、障害の有無にかかわらず、労働能力が低いと評価された瞬間、仕事を失うなどの形で、私たちは社会から切り捨てられてしまうからです。
では、私たちは何を大切にすればいいのでしょうか。人間の能力の差をどう考えれば良いのでしょうか。そもそも人間が生きる意味というのはなんでしょうか。
こうした論点を真剣に議論する。生活の豊かさとは何かを共に考えていくべきだと思います。》
https://www.buzzfeed.com/sakimizoroki/sagamihara-prof-fukushima-interview?utm_term=.ufZ77VqMGV#.jy577DemVD
能力差別は「経済優先」を背景にしている。
《容疑者は衆議院議長にあてた手紙で、重度障害者を抹殺する理由の一つとして「世界経済の活性化」という言葉を使っています。つまり、重度障害者の存在は、経済活動の活発化や経済成長にとってマイナスになる、だから抹殺するのだ、というのが犯行の動機と思えます。
これは何にもまして——ときには人間の命よりも——経済的な価値を優先させる、という考え方です。こうした考え方が育った背景には、今の日本社会の中に、経済活動を何よりも優先させるという風潮があることが関係しているのではないかと思います。
つまり、品物やサービスを生産する労働力や生産効率で、人間の価値の「優劣」を決めてしまうという風潮です。》
《本当は、障害のない人たちも、こうした社会を生きづらく、不安に感じているのではないでしょうか。》という指摘。まったくそのとおりだ。