被災地は「人物」を育てる

takase222015-11-05

無理ヘンの島にシンニュウ入れる米    (岐阜県 桑原宣彰)
ホルムズまで行かずとも来そう支援の日  (大阪府 遠藤 昭)
シナ海と呼ばれているので俺の海     (大阪府 小山安松)

先月29日の朝日俳壇から。
うまいな。

マレーシアで開かれたASEAN東南アジア諸国連合)拡大国防相会議で、共同宣言を採択できない異例の事態となった。南シナ海の問題を巡る激しい米中対立の結果だった。
中国は、近年、ベトナムやフィリピンの実効支配する環礁などを力で奪い取って勢力圏を急拡大してきた。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20130209
去年はじめからは、スビ礁など七つのサンゴ礁で大規模な埋め立てをはじめ、すでに多くが基本工事を完了した。
このスピードに脅威を感じた米国は、先月27日、イージス駆逐艦をスビ礁などの12海里内に派遣した。南沙諸島における中国の軍事的覇権を認めないというのだ。
もっとも、米国は中国と緊密な対話、交流のパイプをもっていて、すぐに軍事衝突にはならないと見られるが、今後の問題は、むしろ日本だ自衛隊は、米国から、南シナ海で偵察や情報収集、さらには威嚇などをするよう求められ可能性がある。
安倍首相が安保関連法制の採択を急いだのは、南シナ海自衛隊を引きずりだしたい米国の思惑がはたらいていたといわれる。
心配だ。
南沙諸島の問題は、日本から遠い、関係ない問題ではないのだ。
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さて、南三陸町といえば被災した防災庁舎で知られる。

ここから防災無線で町民に避難を呼びかけた女性職員が犠牲になり、「命がけのアナウンス」と言われた。町長ら11人だけが助かって職員43人が亡くなったという。
2柱のお地蔵さんが置かれ、今も手を合わせていく人が絶えない。
震災後、鉄骨だけになった防災庁舎を保存するか解体するか、町を二分する大問題になった。困った町長は、今年6月末、庁舎の管理を2031年まで県に委ねると発表。県は当面遺すことにしている。
あの広島の原爆ドーム広島県産業奨励館)が、1966年(昭和41年)に広島市議会が永久保存することを決議するまで、実に20年以上にわたって保存か解体かでもめていたことを思う。
被災地の琴線に触れるこうした問題は、性急に決めずに時間の経過にゆだねるというのは知恵かも。「当面遺す」という一見いい加減な措置が、むしろ正解なのだろう。
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南三陸町を巡るうち、ここには実に「人物」つまり「すごい人たち」が多いなと感心した。
4年前、福島県原発事故被災自治体の首長と会ったとき、南相馬市桜井市長、双葉町の井戸川町長、飯舘村の菅野村長など、みな、ユニークで面白い、行動力ある人物ぞろいなのに驚いたが、あれに通じるものがある。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20111016
なぜなのだろうか。
危機にあって、追い詰められたとき、人は普段とは違った能力が発揮され、そのことに気がついてさらに成長していく、などというプロセスがあるのかもしれない。

ボランティアにも仰天するようなすごい人がいた。

仮設商店街の朝市で、焼き芋を売っていた「ひーさん」と呼ばれるこの女性。
彼女はかつて南極越冬隊員として気象観測をしていた経歴の持ち主だ。
3.11直後、ボランティアとして宮城県沿岸地域に入り、ロケットストーブを配って歩いた。芋を焼いているのがそのロケットストーブだが、少量の薪で効率的に煮炊きでき、しかも煙が出ない。
この地域を回って使い方を説明していくうち、ここに住みたいと思うようになった。
海も山も畑もみな豊かだ。食べ物はうまいし、人は人情に篤い。
一方、東日本大震災で痛感させられたのは、自分の暮らしがいかに根っこのないものであるかということ。
エネルギーはじめ生活に必要なものをすべてお金で買うことで、他者に依存し、自然と切り離されていることに気づいたという。

はじめは休みを利用して通って来ていたが、それでは満足できなくなり、将来を嘱望されていた気象台をすっぱり辞めてここに移ってきた。

トラックの荷台に居住スペースを乗っけたキャンピングカーを自分で設計し、今はここに寝泊りしているが、最近住む土地を見つけたので近く小屋を建てて住むという。
いまは、朝市のほか、大工の手伝いなどのバイトでしのぐが、これからは「衣食住に直結する仕事」がしたいという。
じゃ、僕のようなメディアの仕事なんかダメだねというと「あ、それはイヤですね」ときっぱり。

ちなみに焼いている芋は、自分の手で植えたという。
芋をひっくり返すその手は、皮膚のぶ厚いたくましい農民のものだった。

この人、どこまで大きくなっていくのだろうか。
被災地は「人物」に出会うところである。
(つづく)