日本の伝統にある民主主義−寄り合い

takase222015-04-24

白い花に朝日が射し、光が当たったところが浮き立って神々しい。
咲き始めたコデマリだった。
もうそんな季節か。
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番組編集でこもっていると、世間の動きにうとくなるが、たまたま見たテレビニュースで、自民党がテレ朝とNHKの幹部を呼び出して番組内容を聴取したことを知った。
メディア、とくにテレビを飼い犬のようにしようという意図がはっきり見える。安倍内閣はかくも品のない粗野な形で支配を強めようとしている。

これに対し、テレビ東京高橋雄一社長が、23日の定例会見で
政権政党の力を持っている方が、番組内容に関してテレビ局の人間に話をさせ、圧力があるとかないとか臆測を呼ぶこと自体、決して好ましいことではない。そういう状況はできるだけ避けていただきたい」、「取材の自由や言論にかかわるものについて、そうした(聴取の)場を設定されると、呼ぶ側の真意にかかわらず臆測を呼ぶ」と述べたという。
そのとおり、がんばれとエールを送りたい。
こんな当然のことを言うこと自体を応援しなければならないとは、考えてみれば変な話である。

第四の矢は放送局を狙いだし  (東京都 富山茂雄)  朝日川柳より
これについてはまた書く。
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さて、南医療生協の成瀬幸雄専務理事が、とことん話し合えば、結論はしかるべきところに収まると言ったことで思い出したのは、宮本常一の『忘れられた日本人』での「寄り合い」の描写だった。

宮本は、対馬西海岸の村で、古文書を拝借したいと村の人にお願いした。
そこから寄り合いの話が出てくる。

「この古文書をしばらく拝借ねがいまいか」と老人の家へいってたのむと、老人は息子にきいてみねばという。きけば今日も寄りあいのつづきがおこなわれていて息子はその席へ出ているとのことである。そしてまた人をやってよんで来てくれた。すると息子はそういう問題は寄りあいにかけて皆の意見をきかなければいけないから、借用したい分だけ会場へもっていって皆の意見をきいてくるといって、古文書をもって出かけていった。しかし昼になってもかえって来ない。午後三時をすぎてもかえって来ない。「いったい何の協議をしているのでしょう」ときくと、「いろいろとりきめる事がありまして……」という。その日のうちに三里ほど北の佐護まで行きたいと思っていた私はいささかジリジリして来て、寄りあいの場へいってみることにした。老人もついていってくれる事になった。いってみると会場の中には板間に二十人ほどすわっており、外の樹の下に三人五人とかたまってうずくまったまま話しあっている。雑談をしているように見えたがそうではない。事情をきいてみると、村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得のいくまで何日でもはなしあう。はじめには一同があつまって区長からの話をきくと、それぞれの地域組でいろいろに話しあって区長のところへその結論をもっていく。もし折り合いがつかねばまた自分のグループへもどってはなしあう。用事のある者は家へかえることもある。ただ区長・総代はきき役・まとめ役としてそこにいなければならない。とにかくこうして二日も協議がつづけられている。この人たちにとっては夜もなく昼もない。ゆうべも暁方近くまではなしあっていたそうであるが、眠たくなり、いうことがなくなればかえってもいいのである。ところで私の借りたい古文書についての話しあいも、朝話題に出されたそうであるが、私のいったときまだ結論は出ていなかった。朝から午後三時まで古文書の話をしていたのではない。ほかの話もしていたのであるが、そのうち古文書についての話も何人かによって、会場で話題にのぼった。私はそのときそこにいたのでないから、後から概要だけきいた話は、「九学会連合の対馬の調査に来た先生が、伊奈の事をしらべるためにやって来て、伊奈の古い事を知るには古い証文類が是非とも必要だというのだが、貸してもいいものだろうかどうだろうか」と区長からきり出すと、「いままで貸したことは一度もないし、村の大事な証拠書類だからみんなでよく話しあろう」ということになって、話題は他の協議事項に移った。そのうち昔のことをよく知っている老人が、「昔この村一番の旧家であり身分も高い給人(郷土)の家の主人が死んで、その子のまだ幼いのがあとをついだ。するとその親戚にあたる老人が来て、旧家に伝わる御判物(ごはんもの)を見せてくれといって持っていった。そしてどのように返してくれとたのんでも老人はかえさず、やがて自分の家を村一番の旧家のようにしてしまった」という話をした。それについて、それと関連あるような話がみんなの間にひとわたりせられてそのまま話題は他にうつった。しばらくしてからまた、古文書の話になり、「村の帳箱の中に古い書き付けがはいっているという話はきいていたが、われわれは中味を見たのは今が初めであり、この書き付けがあるのでよいことをしたという話もきかない。そういうものを他人に見せて役に立つものなら見せてはどうだろう」というものがあった。するとまたひとしきり、家にしまってあるものを見る眼のある人に見せたらたいへんよいことがあったといういろいろの世間話がつづいてまた別の話になった。
 そういうところへ私はでかけて行った。区長がいままでの経過をかいつまんでひととおりはなしてくれて、なるほどそういう調子なら容易に結論はでないだろう。とにかくみんなが思い思いの事をいってみたあと、会場の中にいた老人の一人が「見ればこの人はわるい人でもなさそうだし、話をきめようではないか」とかなり大きい声でいうと外ではなしていた人たちも窓のところへ寄って来て、みんな私の顔を見た。私が古文書の中にかかれていることについて説明し、昔はクジラがとれると若い女たちが美しい着物を着、お化粧して見にいくので、そういうことをしてはいけないと、とめた書きつけがあるなどとはなすと、またそれについて、クジラをとったころの話がしばらくつづいた。いかにものんびりしているように見えるが、それでいて話は次第に展開して来る。一時間あまりもはなしあっていると、私を案内してくれた老人が「どうであろう、せっかくだから貸してあげては……」と一同にはかった。「あんたが、そういわれるなら、もう誰も異存はなかろう」と一人が答え、区長が「それでは私が責任をおいますから」といい、私がその場で借用証をかくと、区長はそれをよみあげて「これでようございますか」といった。「はァそれで結構でございます」と座の中から声があがると、区長は区長のまえの板敷の上に朝からおかれたままになっている古文書を手にとって私に渡してくれた。私はそれをうけとってお礼をいって外へ出たが、案内の老人はそのままあとにのこった。協議はそれからいつまでつづいたことであろう。」

このくだりはよく引用されるので、知っている人も多いだろうが、なんとも気長な、これならきっと争いごとを避けることができそうなやり方である。
宮本によれば、
「日本中の村がこのようであったとはいわぬ。がすくなくも京都、大阪から西の村々には、こうした村寄りあいが古くからおこなわれて来ており、そういう会合では郷土も百姓も区別はなかったようである。領主―藩士―百姓という系列の中へおかれると、百姓の身分は低いものになるが、村落共同体の一員ということになると発言は互角であったようである」
(以上の引用は、ネットからのコピー)

民主主義は戦後、アメリカから与えられたものではない。古い日本の伝統の中に、別の、強靭な民主主義(と呼んでいいのか分からないが)の精神があったのではないか。

私が、宮本常一の話をすると、成瀬さんも同意して話が弾み、愛知県のこの地方の伝統について語り出した。
(つづく)