何となく戦争になっちまったんだよ

takase222015-03-11

テレビの特番であの日の津波の映像に見入る。
あらためて震災のすごさに唸り声がでる。
震災5年目に入った。
復興事業完了の目標年度として設定されていた年だ。

しかし、「本当の復興」は見えないまま、「復興事業」だけが順に完了していき、暮らしの復興は取り残されてしまっている、と地域社会学の山下祐介氏は言う。

例えば、原発事故被害地域では、《様々な理由から帰ることができない多くの人々を尻目に、帰還事業がたんたんと進行している。人々がそこに戻るかどうかにはお構いなく、除染とインフラ整備で帰る条件さえ整えれば復興は完了するといわんばかりの状況だ》という。

廃炉の工程は現実をふまえて見直しが行われているのにもかかわらず、住民対策ではひたすら帰還が目標とされ、その推進が行われてきた。だが実際の帰還はきわめて難しく、既に指示解除がなされた地域においても、夜間人口を考えれば二割から三割しか戻っていないという現実がある。それゆえ、たとえ自分は帰りたいと考えてもコミュニティは成り立たず、また避難指示が解かれれば賠償は終るので、帰っても帰らなくても暮らしの再建は難しいという事態になっている》。

津波被災地では、今、高さ十メートル前後となるような巨大な防潮堤が順に建設されている。津波の経験が、コンクリートの巨大な壁で人の住む世界と自然とを分断するという結果を生みつつある。しかも復興がこうした大規模防災土木事業の完成を前提にしているため、防潮堤ができなければ復興を進めることができず、四年たってもいまだに土木事業以外の進展が見られないという地域がある》。

いずれも、《いったんあるところで決まってしまった政策が、既成事実化して路線変更できないような構造を作り出しており、当事者にとってはその事業に「のる」か、「のらない」かの二者択一しか選択が残されていない―そういう事態が生じているのである》。(『世界』4月号「隘路に入った復興からの第三の道」)

私も復興の進め方が根本的におかしいという声は福島の住人から聞いていたが、問題は全然解決されていないようだ。山下氏は「のる」か「のらない」かではない第三の選択肢を提言する。
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きのうの空襲犠牲者を追悼する式典がおこなわれた東京都慰霊堂に今朝行ってきた。
うちのオフィスのある御茶の水駅の二つ先、JR両国駅で下車して5分、大相撲の国技館のすぐ近く、横網町公園に「東京都慰霊堂」はある。
もとは関東大震災の犠牲者58000人の遺骨を納める霊堂(「震災記念堂」)だったが、戦後、東京大空襲などの犠牲者、約10万5000人の遺骨もあわせて奉安し、現在は16万3000柱の遺骨が安置されているという。仏教式の施設でお香の匂いが漂う。

ひっきりなしに参拝者が訪れる。家族に支えられたり、杖をついてやってくる高齢者も多い。自分の希望を書いてお供えする「夢とうば」という短冊様の木片があり、ほとんどの人が何か書いていく。
「姉さん、安らかに」という遺族のとうば。幼い字で「みんなが幸せで平和でありますように」というのも。
この公園には震災・空襲の写真や絵などの資料も展示されていて勉強になるが、仏様に熱心に手を合わせる人々の姿に感じるものが大きかった。
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10日の朝日新聞「声」の欄に、作家の早乙女勝元氏が投稿している。
東京大空襲といえば早乙女氏。毎年、この時期に恒例で投稿が載る。
82歳だそうだが、今年もがんばっておられる。
20年近く前になるだろうか、早乙女氏がベトナムへの途上、バンコクの拙宅に寄って夕食をともにしたことがあった。なつかしい。

今年のタイトルは「平和は歩いてきてはくれない」。
《人生を一日に例えるなら、太陽は頭上に輝いていたのだが、いつの間にか西の空に落ちつつある。言わねばならないことを、言わないままにしてはなるまい。国が始めた戦争は国が責任を取るべきなのだ。にもかかわらず空襲被害者を遠いかなたに置き去りにしたまま、国は「いつか来た道」へと暴走を加速させている。》
危機感が漂っている。

ある雑誌に早乙女氏がこんなことを書いていた。
毎日新聞・埼玉大共同調査で「あなたは、日本国憲法を学校の勉強以外で読んだことがありますか」という設問に70%が「ない」と答えている。20代は81%が「ない」だ。また、20代の6割が、戦争体験を聞いたことがないという。(去年の12月25日毎日朝刊)
若い人が何も知らないでは、「この道しかない」と自信ありげにいう権力者に、簡単についていってしまうのでは、と早乙女氏は憂慮する。

「なぜ戦争を阻止できなかったのか」と亡き母に聞いてみたら、
「それがねぇ、何となく知らないうちになっちまったんだよ。
あれよあれよといっているうちに食べ物がカスカスになり、男たちは兵隊にとられ、そして毎日が空襲のサイレンばかりにね」と言ったという。
東京の下町で、暮らしに追われていた人はこうなのだろうな、と印象に残る言葉だった。「何となく・・・」とは、こわい。

戦争にまつわるどんな体験でもいいから、大事に継承していかねばと私も思う。
今度は、早乙女氏が館長をつとめる東京大空襲・戦災資料センター」(足立区)に行ってみよう。