リニア推進の仕方は原発にそっくりだ

takase222014-09-28

はじめて通る道を歩いていたら、ふわーっと甘い香りが降ってきた。
見上げると、金木犀だ。
秋の季語だそうだ。
・・・・・・・
きのう紹介した本、タイトルがまちがっていました。
正しくは、樫田秀樹『悪夢の超特急〜リニア中央新幹線』(旬報社。「悪魔」と書いてしまいました。訂正します。

この本で紹介されているエピソードのうち、特に印象に残ったのが、リニアの発案者が後にそのアイディアの実用化に真っ向から反対したという話だ。

「夢の超特急」といわれた東海道新幹線は1964年に開通するが、その3年前の61年に、旧国鉄の鉄道技師だった川端俊夫さんは、さらに速い鉄道を考えていた。
そこで閃いたのが、磁気浮上式鉄道のアイディア。
1962年から、東京国分寺市の鉄道技術研究所で研究が始まった。ちなみに、この研究所付近はよく散歩したし、ここの研究員がご近所さんにいてお付き合いがあったりとなじみの場所だ。
1977年、宮崎県に走行距離7キロのリニア実験線が完成。79年には無人運転で時速517キロを記録する。
1989年8月7日、実際の運用につなげる実証的な走行実験場所が、山梨に誘致されることが決まった。
その同じ8月の24日、川端さんは朝日新聞に「リニアの電力消費は新幹線の四十倍」という投稿をして、なんと、リニアの実用化に真っ向から反対したのだ。

リニアの発案者がなぜ?
樫田さんは、1999年、当時86歳で札幌に住んでいた川端さんに電話で真意を聞いた。
「こんなエネルギー浪費の乗り物は認められません」と川端さん。
土木が専門で、エネルギー問題には詳しくなかったが、その後エネルギーのことを勉強して、リニアの電力消費の大きさを知ったという。

そして、肺浮腫を病んでいた川端さんは、
「このままじゃ、私、死ねないですよ。リニアにもし多額の税金が使われ、電力も浪費して、『こんな金を使わせたのは川端だ』なんて言われたら孫子の代まで恨まれます」と答えたそうだ。
JR東海がデータを公開しないので、電力消費量については諸説あるが、従来の新幹線よりはるかに多いことは間違いない。リニア中央新幹線の着工が、原発再稼働とセットになっていると疑う市民団体もある。

この本で最も感銘を受けたのは、著者の樫田さんのジャーナリストとしての姿勢だ。
リニア新幹線の様々な問題を列挙したあと、樫田さんはこう書く。

《これだけの問題が、東京都から愛知県までの広範囲で起きる可能性があるが、その全情報は一人のフリージャーナリストだけでは把握できない。実際、私は、東京から名古屋まで訪れていない場所がある。会うべきなのに、まだ会っていない市民団体のメンバーもいる。目を通すべきなのに、まだ手をつけていない文献調査もある。確認すべきなのに確認していない問題もある。
それでも、私がリニアに関して取材を続けるのには理由がある。いま伝えるしかないからだ。
3・11の前、原発の危険性を訴えるマスコミはきわめて少なかった。事故が起きてから、多くの記者が饒舌になった。原発関連の本にしても、事故のあとは数百冊も出ているはずだ。もちろん否定しているのではない。次から次へと新たな問題が発生する以上、どれも大切な情報である。
だが、その礎を作ったのは、原発事故以前の数十年間、事故の可能性を訴え、反原発を訴えていた少数の市民団体やジャーナリストや研究者だ。たとえば、原発事故のあと、どの講演会場も立ち見が出るほどに時の人となった小出裕章京都大学原子炉実験所助教は、事故の前は10人前後しか聴衆のいないときもあった。それでも腐ることなく、淡々と講演活動を続けた。市民団体も廃炉を視野に入れた運動を展開したり、東京電力に何度も申し入れを行なっていた。
だが、マスコミは東京電力という大スポンサーに配慮して、こうした声を拾わなかった。東京電力はひたすら「原発は安全です」を繰り返し、国民的検証もないまま、ついに事故が起きた。
リニアが事故や問題を起こすとは断言しない。ただ人間が造るものである以上、その可能性はある。リニア計画では、すでに山梨県のリニア実験線周辺で、起こらないといわれていた水枯れが頻発しているだけに、問題発生の可能性は低くはないと推測する。しかし、その検証がされていない。
あるテレビ関係者は言った。「JR東海がスポンサーである以上、報道は難しい。でも、事故や大問題が起これば取材できる」と。だが、私は事故を待ってなどいられない。いま伝えることで、多くの人にリニアに関する情報を知ってもらい、議論をしてほしい。
なぜなら、リニアは似ているのだ。原発の推進の仕方と。》(P258-259)

高い志と熱意で誕生したこの本をみなさんにお勧めしたい。