「幸せ」を知らない人

takase222014-04-23

駅の土手にツツジが一斉に花を咲かせている。
ホームがぱあっと明るくなったようだ。
これを眺めるだけでポジティブな気持ちにさせられる。
「何が起きても大丈夫だ」
・・・・・
北朝鮮強制収容所に生まれて」という映画については以前紹介した。
http://www.u-picc.com/umarete/
北朝鮮政治犯強制収容所第14号管理所で、政治犯の両親の“表彰結婚”の結果として生を受け、生まれながらの政治犯として育った申東赫(シン・ドンヒョク)》の人生を描くドキュメンタリー。
国連機関が北朝鮮が国家最高レベルによる「人道に反する罪」を犯しているという画期的な報告を出したのには、申さんの存在と証言が大きかったと思う。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20140301
父と母は、政治犯として行いが良いとみなされ、子どもを作ることを許されるが、いわゆる家庭生活はなかった。ごく幼いころは母と住み、父はたまに会うだけ、一定の年齢になれば母とも離されて学校の寮に暮らす。普通の家族愛も育たず、家族は互いに食べ物をめぐるライバルでもある。
申さんはあるとき、母と兄が逃亡を企てていると密告した。その密告への報酬としてもっと食糧をくれと要求した。結果、二人は申さんの目の前で公開処刑される。しかし、当時彼はそれを当然と思い後悔することはなかったという。
人はもともと愛し合うようにできている、などという言葉がまさに絵空事に思われる。
ここまでくると、全体主義がどれほどすさまじく人間を破壊するかは、我々の想像を超えるが、想像することが大事だと思う。
この映画、機会があればぜひ観ていただきたい。

また、三浦小太郎さんが、すばらしい映画評「あらかじめ破壊された精神の再生は・・・」を『正論』5月号に書いているので、これもどうぞ。
冒頭部分だけ紹介しよう。

《一人の痩せて鋭い目をした若者が布団から起き上がり、ゆっくりと歯を磨く。布団を片付け、パソコンの電源を入れ、冷蔵庫からミルクとコーンフレークのようなものを取り出し、さしてうまそうでもなく機械的に口に運びながらパソコンの画面を見る…。映画「北朝鮮強制収容所に生まれて(原題:Camp14/監督:マルク・ヴィーゼ/2013年ドイツ映画/公式サイトhttp://www.u-picc.com/umarete/)」は、そんな世界中にありふれた風景から始まる。
 しかし、この若者が歯を磨くことを覚えたのは、北朝鮮強制収容所を脱出した23歳以降であり、その収容所での食事はギリギリ生命を保つにも足りない、1日70グラムのトウモロコシ粥と白菜汁だけだったこと、おそらくミルクなどというものは見たこともなかったことを思う時、この映像は全く違う意味を持ち始める。青年は申東赫(シン・ドンヒョク)。1982年、北朝鮮平安南道价川市の国家保衛部管轄の第14号管理所(強制収容所)で、囚人の子供として生まれた。このドキュメンタリー作品は、単なる北朝鮮人権問題への告発ではない。生まれたその時点から誰にも愛されず、世界に拒絶され、未だに自らの位置する場所を見いだせていない傷つき漂流する魂の記録である。》http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140423-00010001-seiron-int

この同じ号の「朝鮮半島薮睨み」というコラムで、産経新聞久保田るり子編集委員が申さんとソウル市内の食堂でかわした会話を書いている。そこで久保田さんは「幸せ」について語ったという。
《それは「幸せ」という言葉が存在しない世界についての話だ。》とある。
全く使われない言葉は自分のボキャブラリーにはないし、その概念を知らないという。

《収容所で生まれ育った申東赫氏は韓国に脱出しても「幸せ」がどんな感情なのか分からなかった。収容所には「幸せ」も「愛」もない。言葉がないから感情もない。誰も教えないし、誰も使わない。「希望」も「楽しい」も言葉そのものが存在しないのだ。
「映画をよくみる。感情を学ぶためにね。僕も『女友達に会って幸せだ』と言ってみることはできるけれど、『どんなふうに』と聞かれたら、困ってしまう。わからないから。元々、知らない感情はなかなか分からない」。韓国独特の柄の長いスプーンを口に運びながらそう話す彼は、めったに笑わなかった。》
彼の経験は、私たちの感情、価値体系、もっと言えば人格の根本にあたる部分までが自分以外のものによって作られ、育まれてできるものだということを極端な形で示している。

逆に、私たちの「幸せ」の感じ方、幸福論はどのように作られているのかということを考えさせられた。
例えば、江戸時代に私たちの「幸せ」とはいかなる感情だったのか、そもそも「幸せ」という言葉はほとんど使われなかったと思うが、それはさほど重視されなかっただろう。
今の「幸せ」観は私たちを幸せにしているのだろうか。