袴田さん釈放に「人権」の大事さを思う

takase222014-03-28

二輪草(にりんそう)が咲いた。
夫婦のように、同じ株から二輪咲く。今はまだ一つしか咲いていないが、下に小さな蕾が見える。いつ二輪になるのかが楽しみだ。
原産地は日本を含む極東だそうだから、縄文人も春にはこの花を愛でたことだろう。
そう思うと、何か由緒ある花のように見えてくる。
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きのうから、袴田さんのニュースに釘付けになっている。
ストレートニュースとしては、テレビ朝日の圧勝だった。
報道ステーションでは、袴田さんが拘置所から釈放された直後から車に箱乗り、車に酔って外で休憩するところからベッドに大の字になって横になるところまで一日独占密着した映像を出した。
弁護士が、寿司でも食べようかというと、「寿司は、大腸菌がね・・」
中華料理は?「ラーメンかソーメンだね。ラーメンはすぐに腹へるからね・・・」
ボクシングは?「女の世界になってるからね・・」
48年ぶりの釈放ですでに78歳。精神まで病んでいる姿が生々しく映し出されていた。
姉のひで子さんへの密着映像、一審の静岡地裁で巌さんに死刑判決を出した裁判官の本典道さんの「ごめんね」という述懐、当時捜査にあたった警察官などを登場させて、ニュースの深さと広さとおいて他局の追随を許さず、ぶっちぎりだった。
それにしても、多くの人が、こんなことがあっていいのか!と義憤を感じたことだろう。
まず99%、証拠は検察の捏造だ。
村山浩昭裁判長は、拘置停止の理由を「長期間死刑の恐怖の下で身柄を拘束されてきた。これ以上拘置を続けるのは耐え難いほど正義に反する」と説明。さらに決定書は、「国家機関が無実の個人を陥れ、45年以上にわたり身体を拘束し続けた。刑事司法の理念からは到底耐え難い」と指摘したが、こうした表現は異例なのだという。
ふだんは何となく信頼している司法当局をはじめとするいわゆる「お上」がいざとなったらとんでもないことをしかねないという恐ろしさにぞっとした思いをした人もいただろう。
権力に対して市民を守る「人権」というのが、だから必要なのだな、大事なのだな、と実感する。
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きのうの多田富雄さんの闘病エッセイの続き。
病気という「抵抗」のおかげで、何かを達成したときの喜びはたとえようもないと多田さんはいう。
《初めて一歩歩けたときは、涙が止まらなかった》し、《今日は「パ」の発音が出来たといっては喜び、カツサンド一切れが支障なく食べられたといっては感激する。なんでもないことが出来ない身だからこそ、それが出来たときはたとえようもなくうれしいのだ。
そうやって、些細なことに泣き笑いしていると、昔健康なころ無意識に暮らしていたころと比べて、今のほうがもっと生きているという実感を持っていることに気づく。》
病に倒れてはじめて、生を実感して生きているという。
自分は、こういう実感をもって生きているだろうか。