放射線を正しく怖がるとは?

takase222013-08-19

これは日本朝顔
可憐だなあ。葉っぱも小ぶりで可愛い。
西洋朝顔と一緒に植えているのだが、繁殖力ではかなわないようで、西洋朝顔が毎日4つも5つも咲くのに、こっちは数日おきに一つ、二つとひっそりと咲く。
アサガオというのは奈良時代に入ってきて、日本で非常にたくさんの品種が生まれたそうだ。そこに日本とか西洋とか名前が付くのはどういうことなのか知らないが、これ、いかにも和風な感じがする。
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話変わって、冷やした桃が実にうまい。
桃という果物はとてもジャパニーズ、日本的だと思う。梨や柿もそうだけど、たぶん、日本産にかなうものはないのではないか。
その桃、見ると「福島産」。かみさんによると、福島の桃は他の産地に比べてやはり安いのだそうだ。こんなにうまいのに。我々一般の庶民の差別である。

こないだ、武田徹原発論議はなぜ不毛なのか』を読んだ。
朝日新聞編集委員、高橋真理子さん(真梨子じゃないよ)の発言がとてもバランスが取れていると思った。私の考え方に近いので、「そう、そう」と相槌をちながら読んだ。
「危ないところからはすぐに逃げなくてはいけないし、それほどでなければ、逃げることのコストの方が大きくなるわけですから、」
「リスクを比較対照して判断することなんですよ」
その通りで、全員で「逃げる」ということは、その地域を捨て、産業はつぶされ、その瞬間に全員失業し、自分の家から放り出されるということを意味する。つまり生活そのものが崩壊するわけである。これは放射線自体の健康被害よりはるかに大きなダメージを人間に与える。心身にすさまじいストレスがかかる。「何シーベルト」とかいう話よりもはるかに打撃が大きいのだ。
自民党高市早苗氏が、原発事故で「死亡者が出ている状況ではない」と言って顰蹙をかったが、これは東京の反原発原理主義者と同じで、放射線健康被害しか見ていないからである。実際には、ものすごい人数が犠牲になっているのである。(多くは「避難」=「移動」によって)
さらにいくつか高橋さんの発言を引用する。
「がれきに関して言えば、放射線を測ってある一定のレベル以下だったならば、被災地のために協力するという気持ちになってほしいと思います」
その通り。山形県と東京都が最初にガレキを受け入れたが、福島でなく宮城や岩手のガレキまで拒否する自治体が多いと聞く。ガレキ受け入れ反対の人が、「コミュニティの連帯がどうした」と語っていたりするのである。
「不安に思うことのデメリットを理解すること」。
「確率的なリスクの大きさと、不安を持ち続けることによる悪影響の大きさをはかりにかけるという発想」。
放射線の人体へのリスクだけとっても、何万人に一人がん死が増える(かもしれない)という確率論であって、自分が貧乏クジを引く確率は宝くじに当たるより少ないかも知れなお。
「毎日子どもに作るご飯がどれだけ汚染されているのか心配し続けるより、『もういい、すっぱり楽しく生きよう』と自覚的に選ぶ。心配することで得られるプラスより、マイナスの方が大きいと判断したわけです。市場に出回る食品が厳しく規制されている今の状況下では、これは合理的な選択だと思います」。
「『0ベクレルでないと安心できない』という共感する人が少なくないのは、ほかのリスクと比較対照して判断するという発想が行き渡っていないせいだと思いますね」
こういう、私からすると実にまともな議論をしている高橋さんだが、2012年にある論説を書いて、反原発派にネット上で袋叩きにされていた。いわく、「権力の犬」、「「原子力村の一員」、「マスコミの体質の悪しき実例」等々。こうしてこの人は、反動派のレッテルをはられたのだった。
いったい、どんな論説だったのか。
そのタイトルは、「女性と放射線 心配しすぎる泌要はない」だった。
(つづく)