吉田昌郎氏に感謝する

takase222013-07-09

福島第一原発の事故当時、所長として現場で陣頭指揮した東電執行役員吉田昌郎(よしだ・まさお)氏が、きょう午前11時32分、食道がんのため都内の病院で亡くなったという。
58歳だった。吉田氏は、事故後、2011年12月に食道がんと診断されて所長を退任、去年7月には脳出血の緊急手術を受け療養生活を続けていた。ストレスで、体じゅうボロボロだったのだろう。
《事故発生後は、同原発の免震重要棟で陣頭指揮に当たった。首相官邸の意向を気にした東電幹部から、原子炉冷却のため行っていた海水注入の中止を命じられた際には、独断で続行を指示。行動は一部で高く評価された。
 一方、事故直後の対応では、政府の事故調査・検証委員会などが判断ミスを指摘。原発津波対策などを担当する原子力設備管理部長時代に、十分な事故防止策を行わなかったことも判明した》(時事通信
彼への評価はいろいろあるだろうが、「フクシマ50」と呼ばれた彼と彼の部下、仲間の奮闘がなかったら、あの事故の被害は今の何倍、ひょっとしたら何十倍になっていただろう。
このことを具体的な形で知ったのは、去年暮れに出た『死の淵を見た男〜吉田昌郎福島第一原発の五〇〇日』(門田隆将)という本によってだった。
電源が途絶えたため冷却できなくなった原子炉に、一刻もはやく水を入れなければならない。緊急に水を入れる「ライン」を作る必要があった。そのためには、何箇所かのバルブを手動で開ける作業が求められた。
だが、そのバルブの位置は放射線量の非常に高い危険な場所にある。しかも電気がなく真っ暗。誰が行くかを決める段になって、自ら決死隊を志願する人々が相次ぎ、「俺が行きます」「いや私が行くからお前は残れ」と仲間を残そうとまでしたという。
当時はメディアにも流れなかった、こうした危険極まりない作業の結果、なんとか冷却することにこぎつけたのだった。彼らのおかげである。現場で収束にあたった東電や関連会社の社員には、地元の出身者が多く、自分の命を投げ出す覚悟で不眠不休の作業を続けたという。
涙なしには読めない本だった。その涙には、感動や感謝のほかに、「もし彼らの作業が失敗していたら・・」という恐怖と「よかった」という安堵も混じっていた。本当に一つ間違えたら、ゾッとする事態になったであろうことが、作業にあたった彼らの危険な状況からリアルに理解できたからだ。
 吉田氏は、おととし11月、福島第一原発の事故現場が報道関係者に初めて公開された際「事故直後の1週間は死ぬだろうと思ったことが数度あった。1号機や3号機が水素爆発したときや2号機に注水ができないときは終わりかなと思った」と当時の思いを語っていたが、その詳細がこの本に書いてある。一読をお勧めする。
 吉田氏は、親しい人に、事故後の経験を本に書きたいと言っていたそうだが、それはかなわずに亡くなった。
 心からごくろうさま、そしてありがとうと感謝の気持ちを捧げたい。