年末の訃報

takase222012-12-29

昨夜は宮城県石巻市にいた。
2月以来ご無沙汰して最近の様子を知りたかったのと、石巻日日新聞が11月開設した「絆の駅」という施設を見てみたかったのだ。この中に、あの「手書きの壁新聞」の原本も展示するニュース博物館「石巻ニューゼ」もある。「ニューゼ」とは、ニュースと博物館を意味するミュゼの合成造語だそうだ。
(手書きの壁新聞についてはhttp://d.hatena.ne.jp/takase22/20110726
報道部長だった武内宏之さんが「石巻ニューゼ」の館長で、実に丁寧に館内を案内してくださった。
この「絆の駅」は、新聞社の百周年事業。この新聞は百年という長い歴史を持つ。
武内さんによると、戦時中、1県1紙とする新聞統制が行われ、宮城県河北新報以外は統廃合されたのだが、当時の日日新聞はそれを拒否して新聞を出し続けたという。紙の配給停止で印刷はできなくなったが、家にあったわら半紙に鉛筆で記事を書いて、地域に配ったという伝説があるという。震災で手書きの壁新聞を出したのはそのDNAだったのか?それにしても、その「伝説」が本当なら、もっと調べてみたい面白い話である。
夜は2階の「レジリエンス・バー」(resilience とは困難からの回復力という意味)で夜の11時まで武内さんや地域の人と語り合ってホテルに帰った。
携帯に、夕方、中学からの親友の板垣好記(よしのり)から電話が入った記録があったが、きっとまた「一緒に飲もうぜ」という誘いだろうとそのままにして寝た。きょうになって、再び電話が鳴る。女性の声だった。
「板垣の家内です。実は主人がきのう亡くなりまして・・」。
朝起きてこないので、おかしいなと見ると、すでに亡くなっていたという。
健康診断で心臓が引っかかり、精密検査のために病院に通いはじめた矢先だったという。きのうの夕方の電話は奥さんからの緊急の知らせだったのだ。
板垣とはつい今月あたまに一緒に飲んだばかりだった。写真がその飲み会で、右から私、隣が板垣だ。
あまりに突然のことで、奥さんも「ただ驚いてしまって・・・」と、何度も言葉をつまらせ、嗚咽が電話口から漏れてくる。かわいそうで慰めようもなかった。
思い出そうとすると笑顔しか浮かばない人がいる。板垣はそんなとても明るいキャラクターで、昔から人気者だった。友だち思いで面倒見がよく、同窓会の飲み会はいつも彼が世話焼きをしていた。
私は大学以降は、一時昔の同窓生との付き合いが途切れたが、板垣とは続いていた。大学1年のとき、私は板垣の下宿にまで押しかけて「カンパを出せ」と言ったことがある。私は当時、ベトナム人民支援運動(「両方とも戦争をやめましょう」という「反戦」運動ではなく、ベトナム側に味方して勝たせようという支援運動)に没頭していたのだ。
板垣は下宿に泊めてくれて「おれ、お前がやってること、わかんねえ」とニヤニヤしながらカンパを出したのだった。彼は笑いながら、突っ走る私を「わかんねえ」けど応援するというスタンスをその後もずっと持ち続けてくれた。「面白いからこれ観ろよ」と番組案内を出すと必ず観てくれた。
いつも私のことをちゃかしながらも、「出社して最初にやるのは、パソコン開いてお前のブログが更新されてるか見ることだ」とも言っていた。おお、だいぶ気にかけて応援してくれているんだなとありがたかった。
会社のことを話せば「良い部下をたくさん持ったのが一番嬉しい」と誇らしげに言っていた。どこに行っても慕われるのは、包容力の大きさということなのだろう。
夜遅く帰って疲れたなと思ってもブログを書こうとパソコンに向かうとき、その気力の何割かには、「せっかく毎日チェックしてくれる板垣をがっかりさせちゃ悪いな」という気持が入っていた。
義理堅いことに、二ヶ月前、父の通夜にわざわざ来てくれた。先日飲んだときに、「これは香典返しだ」と言って、出版したばかりの『神社は警告する』を手渡すと、やはりニヤニヤして「香典返しか」と受け取ってくれた。
このご時世、子どもを4人も育て上げたのは大したものだ。子煩悩で、娘さんが去年結婚して、とても喜んでいた。
享年60。還暦で亡くなるのは、今の日本では「早すぎる死で、さぞ無念だったことでしょう」となるのが普通だが、私はそうは思わないようにしている。長く咲く花もあれば、はやく散ってしまう花もある。自分に与えられた時間を気にせずに、花は無心に懸命に咲いて散る。長くても短くても、立派に生をまっとうしたのだ。
もちろん、若くして亡くなった故人の残された家族や近しい人の嘆きは大きい。ご家族には試練だと思うが、運命をうらまず、彼の人生を誇りに、前を向いて生きていってほしいと切望している。
人はみな死ぬ。とはいえ、自分と「歴史」を共有する人を失くす喪失感は格別なものがある。
冥福を祈る。