山内明美さんに聞く「東北のこれから」

takase222012-07-05

きのうの朝日新聞朝刊の「オピニオン」欄は、宮城大研究員・山内明美さんに聞く「東北のこれから」だった。
とてもラディカル(根底的)で適切な問題提起をしていると思った。震災の「復興」とは単に元に戻すという単純なことではないことを現場から直言している。いい記事だったので、ちょっと長いが紹介したい。

■縮みゆくふるさと 元々ある地域の力生かした自立へ
 東北の未来に向け、何を考え、どう取り組んでいくか。震災から1年余り、まだまだわからないことだらけだ。宮城県南三陸町の農家で生まれ育ち、東京で活動していた一人の若い研究者が、震災後に町に戻り、この難題に向き合っている。宮城大学の特任調査研究員として南三陸復興ステーションで活動する山内明美さんに聞いた。
 ――ふるさとに戻って今、何を考えていますか。
 「震災後、この町はどんどん小さくなっています。人の流出が止まらない。震災前の1万7千人から、1万人ぐらいに減ってしまうかもしれません。先日も、ようやく水産加工会社が立ちあがって求人をかけたのに、応募者が足りません。まだそんな状態です。なんとか人が暮らしていける場所にしないと」
 「私がつとめている宮城大学の南三陸復興ステーションは、山間部の廃校になった小学校にあります。母校です。震災直後は臨時の警察署でした。私は近代史の研究者ですが、今はここを拠点に町の人たちと、地域に元からある物や価値を生かした町づくりに取り組んでいます」
 ――地域に元からある価値とは。
 「たとえば炭焼きです。古いですか? 私の生まれ育った集落では今でも炭焼きをするし、炭を使っていますよ。ステーションの事務所にも薪ストーブを入れました。周りには手入れをしていない山がたくさんあって、燃料はいくらでも手に入ります。炭や薪、間伐材を使った木質ペレット(固形燃料)は町の貴重な資源になるはずです。町もペレット工場の建設を予定しています」
 「自分たちの暮らしに必要なエネルギーは、まず自分たちでつくる。東京が福島にしてきたような、ほかの土地に負荷をかけることは、もうしたくない。自立し持続できる町づくり。それを目指しています」
 「私はエコロジストではありません。ただ、東北にはまだ表面に出ていない力がたくさんある。こんなにひどい目にあった後だからこそ、元々の力を生かせたらと思うのです。もちろん東北全部で炭や薪を、というわけではありません。それぞれの土地でそれぞれの力を見つけ、取り組んでほしい。海があるところは海の、山があるところは山の。まず、そこからです」
 ――震災後、東北の被災地は称賛されました。「日本ならではの村社会が生きていた」と。
 「あのとき、確かに村社会は機能しました。私の集落は浜から10キロほど入った山の中ですが、昔から町中が津波にやられたら炊き出しをすることが習いでした。今度も直後から家々がコメを持ち寄って、電気もガスも止まったので、かまどで炊いて。女たちが握ったおにぎりを男たちがリュックに詰めて、歩いて被災地まで運んで行きました。でも、それだけではないのです」
 ――それだけではないとは?
 「地元の新聞に、津波の引いた翌朝、高齢のしゅうとめをおぶって、がれきを歩くお嫁さんの写真が載りました。実は彼女は中国人なんです。この町にはアジアから来たお嫁さんがたくさんいます」
 「三陸の漁村の女の仕事はきついですよ。たとえば真冬の浜でのカキむき。寒風の中、冷水を使った手作業です。それが都会のスーパーに並ぶわけですが、その仕事を彼女たちが担っています。東北は震災前から国際化・多国籍化が進んでいました。『日本ならでは』と称賛された東北の村社会には今、外国人女性が大勢いることも知ってほしい」
 ――山内さん自身は、どういう家で育ったのですか。
 「南三陸の農家の娘です。家ではコメをつくったり、牛を160頭ほど飼ったりしています。今は弟が後を継いでいます」
 「忘れられないのが1993年の冷害です。例年、田んぼ1枚あたり550〜600キロのコメがとれるのに、この年は20キロでした。高校3年の時です。衝撃でした。田んぼで泣きました。初めて買ってきたお米をみんなで食べたし、親戚からは『昔なら娘身売りだ』と言われました」
 ――その山内さんが考える東北とは、どういう土地でしょう。
 「『東北』って妙な地名だと思いませんか。『東の北』。ここではない、どこかで付けられた地名でしょう。ここに住んでいる人にとっては、ここが真ん中ですから。『みちのく』『陸奥』も同様です。誰から見て奥なのか」
 「近代になってからは日本の訓練地、サバイバルのための土地でした。戦前、海外に移民で出る人たちの訓練が東北各地でありましたし、日露戦争前の八甲田山の雪中行軍訓練が象徴的です」
 ――「東北は米どころ」という見方を批判していますね。
 「東北の稲作の歴史は一部の地域を除くと、そう古くはありません。イネはもともと南方の植物です。かつて東北では、アワやヒエなど『餓死知らず』といわれた穀物が、イネより多く植えられていました。明治に入って品種改良が重ねられ、試行錯誤の末、広まりました。戦後の食糧不足でさらに後押しされ、米どころに成長しました」
 「ここの人たちは田んぼも原発も『豊かになれる』『すごく進んだこと』と受け入れてきたのです。長い歴史の中で劣位に置かれた状況から脱しようと、つかの間の夢をみた。でも、コメは多すぎる、もういらないと言われ、原発は爆発して放射能をまき散らしてしまいました」
■過疎・高齢・格差、世界の問題が凝縮 ここから巻き返す
 ――これからも、厳しい状況が続きます。
 「どうやって巻き返すか。切り返せるか。難しいです。難しいですが、ひとつ確信していることがあります。世界で起きているいろいろな問題がここに凝縮されていて、ここで方策を見いださないうちは、社会で起きているいろいろな問題は解決できないだろう、ということです」
 ――いろいろな問題とは。
 「過疎化。高齢化。少子化。貧困。格差。どれも震災前からあり、震災で一段と深刻になりました。さらに、原発事故でたくさんの人たちが自分の土地を追われたままです。大量の『避難民』が発生している。人間が生きていくことの根本的な問題が集約されている場所。それが東北です。ここで巻き返しができないなら、どこの社会でもできないんじゃないか。そんなことを考えます」
 「でも、希望はあります。震災後、仙台や東京から戻って事業を起こそうとしている若い人たちがいます。人がどんどん出て行くことに危機感を抱き、逆にここで生きていこうと腹をくくった人たちです」
 ――そして、どうしますか。
 「選択の幅を広げたい。近代化って、全体主義みたいなところがあると思いませんか。みんなが同じ方向に走らされ、異論をはさみにくい。ちょっと待って、と言いにくい。それを変えませんか。エネルギー問題でも『原発を再稼働しなければ国民生活が守れない』と突っ走るのではなくて。間伐材で薪をたいてもいい。炭を焼いてもいい。太陽光もある。川があれば水力。あるいは地熱。それぞれの地域に合った、暮らしに合ったエネルギーというものがあると思うのです」
 ――でも、それではエネルギーが足りない、東北の復興もできない、という人は多いのでは。
 「そういう人は、ここに来て現場を見てください、暮らしに合ったエネルギーで生きていこうという人たちを見てください、と言いたいです。なぜ、あれだけの事故を経験して、まだ原発でなければダメだという議論しかできないのか、エネルギーの転換を想像できないのか、不思議です。人間の歴史を振り返れば、これまで何度も大きな転換がありました。危機のたびに新しい発想で乗り越えてきたはずです。経済界のみなさんにこそ、発想の転換をしましょうよ、と言いたいです」
 ――あらためての質問です。これからの東北とは。
 「日本のフロンティア(辺境)です。これまでも実験地だったし、これからも実験地です。その宿命を負わされています。震災後の、こんな中から、どうやって町を、暮らしを立ち上げていくのか。まさに実験場です。つらいですよ。自分のふるさとをこんな風に言いたくない。でもフロンティアだからこそ、中央に対して『それでいいんですか』と問い返せる。発想の転換を求めることができる。そういう場所です」