被災地に住み込んだ記者

takase222012-04-20

ロウバイの黄がサンシュユに受け継がれレンギョウの黄で本当の春
  (京田辺市)藤田佳予子(今週の朝日歌壇)
春は黄色ではじまる感じがある。
このごろは白が目に付く。これは通勤途上で見た鈴蘭水仙
ちょっと肌寒い日があるが、周りに新緑が映えてきた。
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今朝の新聞記事に知り合いの記者の名を見つけた。「日本記者クラブ賞」に選ばれたという。
公益社団法人・日本記者クラブ(吉田慎一理事長)は19日、萩尾信也・毎日新聞東京本社社会部部長委員(56)に今年度の日本記者クラブ賞を贈ることを決めた。5月28日に贈賞式がある。
 萩尾記者は9歳から17歳まで岩手県釜石市で育った。昨年3月の東日本大震災後、被災した故郷に住み込み、同5月から201回にわたり長期連載「三陸物語」を執筆。被災者一人一人から家族を失った悲しみや再生への思いを聞き出し、方言を生かした文章でまとめ上げた。
 萩尾記者は長崎県生まれ。80年入社。東京本社社会部、外信部、バンコク支局特派員、サンデー毎日編集次長などを経て11年から現職。
 このほか、福島第1原発1号機の水素爆発の瞬間を監視カメラで収めた福島中央テレビ報道制作局と、東日本大震災で社屋が被災したにもかかわらず、手書きの壁新聞を作り、避難所に張り出した石巻日日新聞に新設された特別賞が贈られる。
 6月15日午後6時から日本記者クラブ(東京都千代田区内幸町)で記念講演会がある。定員200人。参加費無料。申し込みはkinenkoen@jnpc.or.jp》(毎日新聞
萩尾さんがバンコク支局にいたとき、私も2度目のがバンコク赴任だった。滞在時期がほとんど重なり、いろんな思い出がある。徹底した庶民目線の現場主義の記者である。この歳なら、とっくにデスクで「なんとか長」になっているだろうに、そういうコースを拒否して記者をやり続けているのだろうと推測する。
彼と初めて会ったのは、私がマニラにいるときで87年だったと思う。「じゃぱゆきさん」取材でフィリピンにやってきた彼が、誰の紹介だったか忘れたが、私を尋ねてきて変造パスポートをつくる現場を見たいという。それで、知り合いの「変造屋」を紹介したのだった。(「偽造」は旅券そのものを造るのに対して、「変造」は正規旅券の一部、写真などを不正に入替えることをいう)
萩尾さんが震災後、若いころの故郷に住み込んで記事を書いているのを知り、萩尾さんらしいな、大した記者根性だなと感心していた。
受賞おめでとうとメールを打つと、すぐに返事が来た。
「現地に身を置いて、発信を続けるというシンプルでワンパターンな私の手法が評価されたのだと思いますが、それはジャーナリストとして当たり前のことであり、それが希少価値になっているのだとすれば、ジャーナリズムの世界は危機的状況にある、ということになります。
 いずれにしても、受賞によって私自身に変化があるわけではなく、むしろ「当分、好き勝手にやっていいぞ」とのお許しをいただいたものと都合良く考え、今後も未知の世界の探索を続けます。
 今度いっぱいやりましょう。」
もう十年くらい会っていない。再会が楽しみだ。
石巻日日新聞」も受賞している。授賞式あたりに一緒に飲めるといいなあ。