9月11日放送の情熱大陸で取り上げた、石巻日日新聞が、今度は「菊池寛賞」を受賞するという。おめでとうございます!
《第59回菊池寛賞(日本文学振興会主催)は、宮城県の石巻日日新聞社と河北新報社、サッカー女子日本代表の澤穂希さんらに決まり、19日発表された》
石巻日日新聞社と河北新報社の授賞理由は、《東日本大震災で困難に直面しながら、地元新聞社としての役割と責務を果たした》ことだという。(毎日新聞)
1週間ほど前に武内報道部長からの電話で知らされ、受賞式にお誘いを受けた。「『情熱大陸』の取材を受けることで、取材とは何かを我々も考えさせられました」と武内部長。取材でお邪魔してご迷惑かと思ったが、こう言っていただくとはありがたい。
作家の重松清さんがこの放送を評した文章が番組HPの「読む情熱大陸」に載っている。
生放送である。『情熱大陸』史上初めての試みだという。9月11日オンエアの、石巻日日新聞の回のことである。ドキュメンタリーに生中継パートを組み込むという冒険――窪田等さんのおなじみのナレーションも「生」で入るという画期的な試みなのだが……。
じつはその企画を初めて聞いたとき、アイデアとしてはすこぶる面白いものの、ドキュメンタリー作品としてのクオリティーがどこまで保てるか、いささか心配ではあったのだ。
もちろんドキュメンタリーを「事実の記録」と定義づけるなら、生中継というのは、それじたいがドキュメンタリーとしての魅力を持つことになる。「なにが起きるかわからない」という生中継の面白さ/怖さは、そのまま、制作サイドの思いどおりにはならない事実の面白さ/怖さにつながるのだから。
しかし、ドキュメンタリーとは同時に、編集や構成の妙味によって、事実をより魅力的に再構築するジャンルでもある。同じ一つの事実でも、どこをどう切り取り、どうつないでいくかによって、「事実に即した物語」はさまざまに形を変える。そのバリエーションこそを、僕たちはドキュメンタリーの作り手の個性として愛してきたはずなのだ。
そちらの考えでいくと、生中継のパートを作品に組み込むというのは、作り手の意志の及ばない部分が作品の中に入り込むことになってしまう。せっかく「過去」のパートをきっちりと構成していても、生中継で入ってくる「現在」のところで、すべてがぶち壊しになってしまう恐れだってある。
当然、今回の制作スタッフも、その程度のことは承知の上だろう。それでもあえて生中継に挑んだというのは、やはり生中継でしか伝えられないなにかがあるから――に違いない、と思ったのだ。信じた、と言ってもいい。なにしろオンエア日は東日本大震災からちょうど半年目である。万が一、生中継に踏み切った理由が「震災から半年目の被災地・石巻の様子を伝えるため」というだけなら、「そんなものはニュースに任せておけばいいじゃないか!」と言うしかないし、「アイデア倒れ」の一言で切り捨てざるをえないだろう。
そんな少々ネガティブな予感とともに視聴した作品だったのだが、石巻日日新聞の名前を一躍有名にした壁新聞の話を意外にもあっさりと処理したところで、「おっ?」と身を前に乗り出した。番組は、震災直後の壁新聞の話ではなく、その後――壁新聞づくりを通じて一回り成長した若き記者たちが、壊滅的な被害を受けた石巻に「希望」を見いだそうと奮闘する姿に焦点を合わせていたのだ。
なるほど、これはいい。作品の中に流れる時間は、過去の一点で止まっているのではなく、確かに「いま」に向かっている。たとえほのかではあっても、「希望」の光をなんとかして見つけ、それを地元の人々になんとかして伝えていこうとする記者たちの営みは、半年前のあの日から「いま」に向かい、さらに「いま」を超えて、未来へとつづいていくものなのだ。考えてみれば「希望」とは、常に未来とともに語られる言葉なのである。
そうなると、生中継に確かな必然性が生まれる。石巻日日新聞の記者たちの奮闘はまだ終わらない。たぶん永遠に終わらない。だからこそ、作品を「過去」の中で完結させないために「現在」を組み込んだ――いわば『つづく』のテロップをラストに入れる代わりの生中継だったのではないか。
この画期的な冒険、決して企画先行ではなかった。アイデア倒れでもなかった。ドキュメンタリー作品の手法として、これは「あり」だぜ――。思わずニヤリとしながら、視聴を終えたのである。
http://www.mbs.jp/jounetsu/column/post-231.html
重松さんの番組評は鋭く、あたたかい。
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