山登りで日本を変える3

takase222011-10-11


10日は、2ヶ月ぶりの休日だった。
何かイベントでも見に行くか、と新宿西口三井ビル広場へ。午後2時から大道芸人ギリヤーク尼ケ崎の震災犠牲者への鎮魂の舞をやっていた。
よく晴れて、チューハイ飲みながら見物。81歳でペースメーカー埋め込んでの踊りだという。指先がぶるぶる震えている。はらはらしながら見た。投げ銭でたべていくというのは、どういう生活なんだろう。
先日、朝日新聞天声人語が、松田梨子・わこ姉妹について書いていた。今年春、歌集も出ているそうで、その世界では以前から注目されていたという。今週の歌壇にも載っていた。

勉強のねえちゃん飛んで来ないよう静かに静かにぎょうざを包む                   松田わこ

仲良しなんだなあ。

さて、山田淳さん。
彼の生き方を見ていると、「バックキャスト」という言葉が浮かんでくる。
これは、環境問題を勉強すると出てくる用語だが、スウェーデンに詳しい環境問題スペシャリストの小沢徳太郎さんのブログから、簡単に説明しよう。
日本はフォアキャストの国、スウェーデンはバックキャストの国だという。http://blog.goo.ne.jp/backcast2007/e/096e5942eea01c0b2bdf9d6ad469480e
スウェーデンと日本の違いは、「予防志向の国」と「治療志向の国」、言い換えれば、「政策の国」と「対策の国」といえるだろう。日本の21世紀前半のビジョンは「持続的な経済成長」で20世紀社会をそのまま延長した考えなので、法体系の大幅な変更を必要とせず、必要に応じて既存の法を改正することが中心となる。日本は21世紀型の「持続可能な社会」へ向けた法体系を未だ整備していない。》
《日本の政府や自治体から、そして多くの環境NPOから、さらにはマスメディアから提供される「環境対策のメッセージ」のほとんどは「できること(ところ)からはじめましょう」というものです。これは現状から前(将来)をみる「フォアキャスト」と呼ばれる考えかたです。この方法では、最終的に到達すべき明確な目標を持たないままにそれぞれがバラバラに前進するため、労力、費用、時間をかけて努力したにもかかわらず、「報われない結果」を、あるいは、「現状よりもさらに困った状況」を招くことになりかねません。》
《これに対して、「バックキャスト」は最終的な到達目標である「持続可能な社会」の方向、その条件を明確にし、その目標を達成するための行動を現在から進めていくため、労力、費用、時間などの無駄を省き、「望まれる結果」を得る可能性が高い手法です。》
上勝町長の笠松さんが、日本は「対策」しかない国だと嘆いているが、その通りで、このままでは恐ろしい少子高齢化社会になることは30年前からはっきりしていたのに、なってしまってから少子化「対策」をやろうとするのである。もはや遅すぎる。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20110930
フォアキャストはこうして、成り行き任せになっていく。そのベースには、今が楽しければいいという刹那的な国民感情が形成されていることがあると思う。
スウェーデンでは、30年後にはCO2排出量は何%減にし、原発への依存はここまで減らすとはっきり目標を設定し、そのためには20年後までにはこのくらい、10年後にはこのくらいにしなければならない、というふうに現在に向けて明確な具体的目標を後ろ倒しにしている。これがバックキャスト。
山田さんと話すと、いつも「30年後の山の世界」をどうしたいかということとそれへの自分の役割・貢献を語りだす。「国民の7割が山歩きをする、山を中心とした観光大国の実現」という大目標をかかげて、そのためにはどんな方法があるか、自分はそこにどうかかわっていくかというように人生を決めているようだ。それが「バックキャスト」風だなと思ったのである。
大学受験の成功、スポーツ大会での優勝、一年後の貯金額など、バックキャストしないと達成できないものはあるが、人生を大きくバックキャストで生きることはなかなかできない。
実は、私が山田さんに最も感心したのは、このバックキャスト的な人生の生き方なのだった。
私の指摘はひょっとしたら的外れかもしれないが、彼がラディカルに(根底的に)生きているのは確かで、こういう常識を超えて生きている人が私は好きである。