神社で止まる津波3-貞観津波


ゆうべ、駅からの帰宅途中、道路わきの草むらで虫がさかんに鳴いているのに気づいた。秋がもうそこまで来ている。時間が経つのは早いなあ。
さて、貞観(じょうがん)の大地震・大津波は、今回の大震災で突如、注目されるようになった。
津波の規模や波高、浸水域が、今回と非常に似ていることが分かったからだ。
きのう紹介したように、研究者たちは同様の災害が、周期的にはいつ来ても不思議ではないと思っていたという。
貞観地震は、西暦869年年7月9日に起きた。
これを伝える古文書、『日本三代実録』を紹介する。
以下の読み下し文と訳は、震災2日後の3月13日に、東大資料編纂所の保立道久教授がブログで公開したものだ。他の研究者に聞くと、学界では、保立氏の読みと訳がオーソドックスなものとされているという。
(ただし番組では、これを参考にして少し変更した)
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貞觀三陸地震      『日本三代實錄』巻十六より貞観十一年五月廿六日条読み下し
(貞觀十一年五月)廿六日癸未。陸奥國地大震動。流光如晝隱映。頃之。人民呼。伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顚覆。不知其數。海口哮吼。聲似雷霆。驚濤涌潮。泝徊漲長。忽至城下。去海數十百里。浩々不弁其涯涘。原野道路。惣爲滄溟。乘船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。  
〔書き下し文〕
(貞觀十一年五月)廿六日癸未。陸奥國の地、大いに震動す。流光晝の如く隱映(いんえい)す。頃(しばら)く、人民叫呼(きょうこ)し、伏して起(た)つ能はず。或(あるい)は屋仆(たお)れて壓死し、或は地裂けて埋殪(まいえい)す。馬牛駭(おどろ)き奔(はし)り、或は相(あい)昇踏(しょうとう)す。城郭倉庫、門櫓(もんろ)墻壁(しょうへき)、頽落(たいらく)顚覆(てんぷく)するもの、其の數を知らず。海口(かいこう)哮吼(こうこう)し、聲は雷霆(らいてい)に似たり。驚濤(きょうとう)涌潮(ようちょう)、泝徊(そかい)漲長(ちょうちょう)し、忽ち城下に至る。海を去ること數十百里、浩々(こうこう)として其の涯涘(がいし)を弁ぜず。原野道路、惣(すべ)て滄溟(そうめい)と爲(な)る。船に乘るに遑(いとま)あらず、山に登るも及び難(がた)し。溺死する者、千許(ばか)り、資産苗稼(びょうか)、殆んど孑遺(けつい)無し。
〔現代語訳〕(意訳)
貞観11年5月)26日癸未(みずのとひつじ)の日。陸奥国(むつのくに)に大地震があった。夜であるにもかかわらず、空中を閃光が流れ、暗闇はまるで昼のように明るくなったりした。しばらくの間、人々は恐怖のあまり叫び声を発し、地面に伏したまま起き上がることもできなかった。ある者は、家屋が倒壊して圧死し、ある者は、大地が裂けて生き埋めになった。馬や牛は驚いて走り回り、互いを踏みつけ合ったりした。多賀城の城郭、倉庫、門、櫓、垣や壁などは崩れ落ちたり覆(くつがえ)ったりしたが、その数は数え切れないほどであった。河口の海は、雷のような音を立てて吠え狂った。荒れ狂い湧き返る大波は、河を遡(さかのぼ)り膨張して、忽ち城下に達した。海は、数十里乃至(ないし)百里にわたって広々と広がり、どこが地面と海との境だったのか分からない有様であった。原や野や道路は、すべて蒼々とした海に覆われてしまった。船に乗って逃げる暇(いとま)もなく、山に登って避難することもできなかった。溺死する者も千人ほどいた。人々は資産も稲の苗も失い、ほとんど何一つ残るものがなかった。 

(保立道久の研究雑記 http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-1e1c.html
平安時代に襲った巨大地震津波
人々の驚愕と恐怖が文章からひしひしと伝わってくる。
文中、「流光晝の如く隱映(いんえい)す」とあり、地震のときに閃光が見られたというが、これは吉村昭三陸津波』にも出てくる、大地震に共通の現象らしい。
(つづく)