総リスクという考え方

takase222011-07-25

振れ止まぬ線量計や行々子 
福島市 ニ宮 宏) 朝日俳壇より
(行々子(ぎょうぎょうし)は、ヨシキリのことで夏の季語)

ちゃんと水やりをしているのに、鉢植えのアサガオが花をつけない。
ツルはどんどん延びて見上げるほど。なのに、蕾が一つも見えない。不思議だ。このまま夏を越すのか。
駅近くの線路のフェンスには、誰の世話にもならずに、ヒルガオがピンクの花を咲かせている。アサガオの代わりのようで、毎朝、そばを通るのが楽しみだ。
さて、原発事故の後の言論情況について、私が「賛成!」と思った見方に出会った。
「反原発VS原発維持
単線的な2項対立を乗り越え、社会の『総リスク』を減らす視点で議論をしよう」
(略)
例えば、原発事故が起きたときの避難地域の設定です。最初に行われた同心円的設定は、ずいぶん批判されました。確かにそれはその通りで、同心円的に距離に反比例して危険性が小さくなっていくことはない。風向きなどが関係しますから。SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)のデータも、もっと早く公表すべきだった。その点では危険性を指摘する人たちの言い分にも一理ある。
 その一方で、たとえ現実の放射性物質の飛散状況に合わせて、危険性の分布を表す地図が描けたとしても、その先には避難することのリスクと避難しないことのリスクを比較するような視点があってしかるべきで、さらに年齢的なリスクも考えた上で、適切な避難のあり方を、もう少し議論してもよかったと思います。
 あるいは子どもたちに関しても、田舎の小学校というのは同調圧力が強い。例えば、原子力関係で働いている人の奥さんがPTAの有力な人であれば、彼女に逆らって避難しにくいという状況が生まれがちになる。
 そういった社会的な背景があって、事はそう簡単でないにもかかわらず、都市部の反原発の運動家は「なぜ避難させないのか」と、すごく簡単に議論しています。そうすると避難=反原発運動というようなイメージができて、電力関係者はかえって頑なになるかもしれないので、むしろ反対に、避難するという道をふさいでしまいかねない。だから、何が問題なのかを丁寧に見ていって、解決できるところは解決する。避難するか、しないかという乱暴な議論では、問題は解決できないと思います。(略)
総リスクという点では、低被爆の問題にしても、それ以外のリスクもあるということです。例えば、福島県のある地域で採れた野菜で、放射能が検出されたとして、それでは福島県で採れたものはすべて食べないようにしようということになると、これは風評被害になる。つまり、あるリスクを徹底的に排除しようとすると、他のリスクを高めることがある。そうした問題を承知した上で、どこまでが許容できる放射線量なのかを議論すべきでしょう。
 健康面だけを見ると、できるだけ放射線を浴びないようにすることは正しい。現実的に達成できる範囲で、できるだけ被曝は少なくするというのが、予防原則に基づいた行動指針でしょう。しかし、われわれが社会的な存在である以上は、別の視点の議論も必要であって、ある程度まで放射線量を許容することが、福島の農家の人たちを救うかもしれないわけです。(略)
武田徹氏の議論だ。放射能の問題だけを突出させると、かえって事態を悪化させることがあるのだ。http://diamond.jp/articles/-/13160?page=6