5月7日、モスクワから派遣された生物物理学研究所所長など高官たちは、ウクライナ指導部にこう報告した。
「キエフ市およびキエフ州の現時点での放射能汚染状況は、子どもを含めた住民の健康に危険をもたらすものではない」
「現在、食品に含まれている放射性物質の値は、住民に危険をもたらすものではない」
したがって、「現在のところ、住民、ことに子どもを他の地域へ避難させる必要性は見あたらない」
それなのに、翌日、ウクライナ閣僚会議はあと1週間で学校を休みにし、7年生までのすべての児童を疎開させる決定をした。
モスクワから見れば、ウクライナ共和国指導部の児童疎開決定は、「客観的な正当性をもたない感情的な対応」だった。
この決定は、原発の大事故という国家の最重要事の処理をめぐって、ウクライナ共和国の共産党と政府のトップが、モスクワに公然と反逆したことを意味したのである。
モスクワが、事故に関する情報を隠蔽したのは、第一に体外的な配慮(軍事機密、威信など)だが、もう一つは、国民がパニックにならないためだった。
しかし、皮肉にも、情報隠蔽は、逆にパニックを促すことになった。
西側の断片的で不正確な情報が噂になって流れ、幹部たちは家族をすでに遠くへ逃がしているなどの流言飛語が飛び交った。5月5日の月曜以降、多くのキエフ市民は職場に休暇を申請し、却下された場合は辞職を申し出る人さえ現れたという。飛行機や列車の切符がプレミアム付きで売り買いされ、エクソダス寸前の雰囲気だったようだ。
6日には取り付け騒ぎが起きた。人びとが銀行に押しかけ、午後にはキエフの銀行はすべて手持ち金がなくなり閉店した。車で脱出しようとする人も多く、チェルノブイリと反対方向の南へ向かう道路は渋滞した。
ソ連中央は、ウクライナ指導部にさえ情報を与えなかったから、指導者たちは放射能については一般市民と同じくらいしか知らなかった。だから、市民のパニックに指導部も影響を受けた。
当時、まだソ連邦の共産党支配は揺らいでおらず、共和国の幹部が連邦中央に歯向かうことは、自らの破滅を招きかねない行為だった。
しかし、自分たちと同胞の生命・健康が脅かされるかもしれない、そして地元住民のパニックを何とかしなければ社会秩序が保てなくなる。中央の言う「感情的な対応」の背景には、こうした追い詰められた恐怖感と中央への強い不信感があったのではないか。
学童疎開は、「共産主義だからできた」のではなく、「共産主義に反して」実施された措置だった。
(なお、私が直接話を聞いたウクライナ人は、たしか10年制の学校の全学年が疎開したと語ったと記憶しているが、リードの本には「7年生までのすべての児童」とある。また、キエフ以外の市町村の児童は疎開しなかったのか、などいくつか確認したいことがある。分かり次第、報告します。)