キエフ市の全学童を、黒海沿岸に夏の4ヶ月疎開させる措置は、「共産主義だからできた」のではなく、逆に、激しい社会矛盾と権力闘争を象徴する出来事だった。
チェルノブイリ事故にどう対処するかをめぐっては、当時のソ連共産党中央内で激しい権力闘争が表面化した。
ソ連改革の旗手、ゴルバチョフが登場したのは事故の約一年前。事故当時までに守旧派の共産党幹部を2〜3割追放して、ようやくペレストロイカがはじまろうかというころに事故は起きた。
守旧派の勢力はいまだ強力で、中央は、当初、事故を隠すことに決めた。
事故はソ連中央と共和国との矛盾を一気に激化させた。それは、91年のソ連邦崩壊、ウクライナ独立を準備した。原発事故は、国を滅ぼしたのである。
学童疎開の決定は、その過程の重要な転換点になった。
チェルノブイリの事故への対応は、モスクワが決めた。
当時、ウクライナは、ソ連邦の一共和国であり、チェルノブイリ原発は連邦直属の事業体だったからだ。
4月26日未明に起きた事故は、2日後、スウェーデンのフォルシュマルク原子力発電所で、異常に高い放射線が検出されて発覚。28日、タス通信が簡単に事故を認めたが、国内には、夜のテレビニュースで、7番目の項目として伝えられただけだった。
当局は事故に関する情報を厳しく統制した。ただ、原発の基地として特別な町だったプリピャチ市だけは、事故翌日にバス850台と車300台、列車2編成が動員されてわずか3時間ほどで全住民を退去させた。
その後、ほぼ1週間、当局は住民への事故の真相の説明や指示を出していない。西側メディア(UPI)が「死亡者2000人」(29日)などと報じ、キエフ在住の外国人が逃げ出すなか、うわさが広がっていく。
5月3日、30km圏内の住民がようやく避難。5日夜にはキエフ駅に構内に切符を求める市民がたくさん詰め掛け、夜を明かした。不安はパニック寸前になっていた。
事故後10日経った5月6日、地元のラジオ、テレビは、野菜は水で洗うこと、窓を閉めて屋内にいることなどの勧告を出した。
事故はもっぱらモスクワが処理に当たり、ウクライナ共和国指導部は蚊屋の外に置かれた。情報を与えられなかった分、彼らは心情的には、庶民に近いところにおり、強い不安を持っていた。
ウクライナ閣僚会議は8日、以下のような決定をした。
今年度の学期は5月15日で終了とし、1〜7年生の児童をキエフから、放射性降下物の影響を受けていない地域に避難させる―
8日夜、ウクライナの保健大臣はテレビで、住民が毎日シャワーを浴び、洗髪するように、子どもたちは戸外で遊ぶ時間を制限するように呼びかけ、続いて、こう発表した。
「キエフ市ならびにキエフ州の児童の健康強化のため」、今学年は5月1日で終了とする。学童は南部諸州のピオニール・キャンプや休暇村に送られる。