昭和8年大津波への迅速な対応

takase222011-05-05

きのう宮城県東松島石巻、女川を回り、仙台に一泊。きょうは福島県南相馬市へ行った。
女川からは秋刀魚を送ってもらっていた。震災で町が壊滅した映像を見て、あの秋刀魚を獲っていた猟師さんは無事だろうかと心配になり、わずかだが募金をした。
実際に見る被災地の惨状はすさまじい。車で進むにつれ、つぎつぎに現れる破壊の傷跡に「うわあ」「あー」と思わず声が出てしまう。
それでも、町を再生しようという人々の意欲は強く、女川ではきのう「復幸市」が開かれていた。お菓子や古本などの販売、利用可能な物資の無料配布、名物の秋刀魚焼きもあって、風船を手にした親子連れが楽しんでいた。
まぐろ船主「鈴幸」の社長、鈴木敬幸さんに話を聞いた。
「海の生命力はすごいから、すぐに蘇ります。問題は我々がどう復興していくか。猟師個々人がまた船を購入して一から始めるというのは無理でしょう。協業化の道など新しい道を探したい」。
後継者のいない年配の猟師などは廃業がする人が多いだろう。失われた東北の漁業拠点の再生は生易しいことではないが、鈴木さんたちの奮闘を応援したい。
さて、きのう紹介した吉村昭三陸海岸津波』には、かつての行政のすばやい対応が記されている。
昭和8年3月3日午前2時32分に釜石町東方200キロを震源とする強い地震があり、約30分後に大津波が押し寄せた。三陸沿岸の村落が壊滅的打撃を受け、死者は、岩手、宮城、青森3県でおよそ3000人にのぼった。
最大の被害が出た岩手県の動きはこうだった。
《県庁所在地の盛岡市では地震を感じた直後、余震もやまぬ午前2時40分に警務課長中野警視らが急いで登庁。ただちに県内各警察署長に地震被害調査を問い合わせた。
午前3時22分には全警察署からの報告がまとまった。地震被害がなかったことが明らかになり、中野課長は内務省にその旨を報告。
午前3時30分、森部警察部長も姿を見せ、一同安堵していると、下閉伊支庁長と宮古警察署長からほぼ同時に、
津波襲来ノ徴候アリ、目下警戒中。町民ヲ避難セシメツツアリ」という趣旨の緊急電話が入った。
ついで釜石警察署長から大惨害を予測させる第一報が電話で入る。
地震津波襲来シ、同時ニ釜石町ニ火災ヲ発シ、ソノ勢猖獗(しょうけつ)ヲ極メルモ消火ニ従事スルコト能(あた)ワズ、鎮火ノ見込立タズ」。
三陸海岸の警察署に警告を発しようとしたが、すでに沿岸地方の警察電話をはじめ公衆電話もすべて杜絶し、情報収集の道が断たれた。
警察部はただちに非常警備計画にもとづいて、警察部、警察教習所職員全員に対して非常招集命令を発した。
ついで午前4時、石黒英彦知事が登庁。各部長、警察部各課長を招いて緊急会議を開いた。席上、知事は、非常警備司令部の設置を決定し、森部警察部長を司令官に任じて警戒警備を命じた。
森部司令官は、会議が終了した直後の午前4時30分、罹災地以外の県下全警察署に対し署員の非常招集命令を発して各署に待機させ、また県庁内の内務、学務各部の全職員の即時登庁を命じた。
態勢が完全にととのった午前6時頃、三陸海岸に近い山間部にある岩泉町の警察署から、
「管下ニ相当ノ津浪被害アリ。救護ノタメ警察官至急派遣アリタシ」との緊急要請が入った。
非常警備司令部は、待機していた全県下警察官に対し出動命令を発し、各警察では署員が罹災地にむかって一斉に行動を開始。その最終出動は、午前7時30分盛岡発下り列車で北方へ向かった一隊という機敏さであった》(P142以下)
一部はしょって引用いたが、この他、陸海軍の動きも実にすばやい。
知事を中心に県のレベルでどんどん決定して行動を起こしているさまに感心させられた。
今の政治リーダーたちには、ぜひこれを読んで勉強してもらいたい。
震災後処理をめぐる国や県の行政幹部のお役所仕事を非難していたジャーナリストSさんに、「なぜ昔のリーダーの方が迅速に決定できたのかな」と聞くと、彼女は間髪を入れず「今は『好かれる人』が出世していくからよ」と言う。
人に嫌われるのが怖いから、自分で決定して責任を取るのをためらうのだという。
そういう傾向はたしかにありそうだ。