右翼と左翼の「統合」2

重要な政策転換がいっこうになされない今の政治には、誰もが失望している。
もう少し理念的なことを書きたいと思う。
「右も左も、党派を超えて取り組もう」という掛け声をよく聞く。
日本はいま、「国難」と言ってもいい事態だし、拉致問題もまた、右も左もなく、解決に向けて進むべき課題だと思う。右と左と統合は可能なのか?
能力の限界から、ほんの表面的な紹介にとどまりそうだが、この問題について書いてみたい。

まず右翼、左翼のそもそもの定義が議論になる。
言葉の由来は、フランス革命の後の議会で、議長席からみて急進派議員が左の方に、保守派が右の方に位置したことにあるという。
だが、保守派=右翼、革新派=左翼というだけではおかしなことになる。例えば、中国においては、変革を望まない共産党は右翼で、憲法改正をとなえるノーベル賞受賞者劉暁波氏らは左翼、となってしまう。
一方、時代や各国の事情で、右、左は相対化される。アメリカでは、共産主義とは遠く隔たっていると思われる「リベラル」派でも左翼とみなされる。どう定義したらよいものか。
先日、たまたま『週刊金曜日』の座談会を読んでいたら、中島岳志氏(北大大学院准教授)がこう発言していた。
「左派と右派の決定的な定義の違いは、理性に対する捉え方の違いだ」。
「左派は、人間の理性的な能力によって、よき社会を作ることが可能だから、努力しましょう、というくくりですね。
それに対して、右派は、人間は常に不完全なので、理性も不完全であると・・」
左派とは近代合理主義の申し子だとする考え方だが、この人間観の問題を、少し先に推し進めてみよう。

ケン・ウィルバーは、人間の「自由」についての根本的なアプローチの仕方で、政治思想が分かれると説く。私には説得的に思えたので紹介したい。

「何故に人間には自由がないか」という問いに対して、西欧では大きく二つの答え方があるとされる。客観的理由と主観的理由だ。
「客観的理由はルソーからはじまりマルクスに至って今日ではいわゆる『リベラル』な政治思想や人間中心的な心理学、哲学となっている。この考え方によると、人間はもともと自由で善良で愛にみちているが社会や政治という客体世界のなかで不平等や抑圧や悪意を見につけるとする。(略)つまり、自由がないのは外部世界の客観的状勢のなせるわざである、と。(略)
ここから、外部世界を変えて不自由の原因を取り除けば人間は自由になるとする考えが生まれる。(略)政治体制や経済機構を変えて搾取をなくし、万人が自然の恵みにあずかれるよう努力がなされる。これは、マルキストから社会主義者、リベラル、アメリカの民主党につらなる思想である」。
ケン・ウィルバー『エデンから』P286)
これでとりあえず、コミュニストからアメリカ民主党まで、左派がざっくりと定義された。
要するに、左派とは、自分が不幸なのは社会のせいだと考える人たちなのである
思い当たるでしょ?
では、右派とは・・。
(つづく)