きょうは会社の忘年会。
写真はオフィスの一角で、右にある赤いのはダルマ。年初に片目を入れ、年末の忘年会に、一年生き残ったともう一つの目を入れるのがうちの儀式である。
このままで日本は、世界はよいのか、と議論にくれた忘年会だった、みな、心ある市民は、世を憂いているのである。来年はよい年になりますようにと素直に祈りたい。
さてさて、今年ほど厳しい年はなかった。どんどん売り上げが落ち込み、もうダメかというところを何とか土俵際で踏ん張っての年越しだ。慎ましく、スタッフの持ち寄りの手料理をつまみながら、再起を誓って乾杯した。もう背水の陣である。
不況の影は私の周りの知り合いにも及んでおり、会社が倒産した、失職した、うつ病になった・・・という話を聞く。いったい世の中、どうなってしまったのか。不安とそして恐怖に近い感覚が社会に漂っているように感じる。
「一に雇用、二に雇用」と言っていた民主党!あの約束にすぐに手をつけよ。それと同時に、不運に見舞われている人は、絶望することなく、楽しく生き抜いてほしいと願う。
さて、三浦小太郎さんの本『嘘の人権 偽の平和』(高木書房、1200円)である。
私がこの本を通読して感じ入るのは、揺るぎない真のリベラリズム、自由なる「個」へのあくなき探求の情熱である。
「自由になれ、最後には一人で闘うのだ」(P59)
「私達の人間性を、ニヒリズムから守る」(P119)
「決して失ってはならないリベラリズムの橋頭堡」(P161)
この本が単なる評論にとどまらず、文章から「撃ちてし止まむ」的な一種独特の「覚悟」が漂ってくるところが実に三浦さんらしいと思う。戦闘的なのである。
この人、若い頃は、知られた右翼活動家で、「思いつめる」という経験をしたようだ。一見とても柔和な人柄なのだが、やはりそういう経験は残るのかな。
「あとがき」で三浦さんはこんなふうに書いている。
「私にはオリジナルな思想は何もない。本書に収められた文章のほとんどは、偉大な先達達の業績を、貧しく狭い私の力量で理解できる範囲に狭めて紹介しているだけである」。
しかし、彼らの「思想の水平線」の向こうに出るためには、「まずはこの偉大な知の巨人達の肩の上まではよじ登ってみせなければならないのだ」と。
謙遜した表現だが、オリジナルな思想、独自の「個」の思想を形づくるためのヒントがここにはある。
「オリジナル」とは、自分勝手な妄想とは違う。
《巨人の肩に乗った小人は巨人よりも遠くが見える》という言葉がある。
三浦さんはこれを踏まえて上の文章を書いたと思うが、思想の巨人に取り組み、十分に理解することができ、その人の眼で世界を見られるようになったとき、巨人の肩に乗った小人は、小人の身長の分だけさらに高い視野を得る。すると、巨人が見ていなかったことがあるのに気がつく。それに取り組めるようになることが「オリジナル」ということなのである。
芸事にもスポーツにも通じるのだろうが、三浦さんは王道を歩んでいるわけだ。
何人もの「知の巨人」(それぞれが大巨人だ)と格闘し続ける三浦小太郎さんが、これから、どんな「巨人」になっていくのか期待したい。
最後に、私の問題意識にもっとも響いた箇所を紹介しておこう。勝田吉太郎論から;
「日本の保守思想はあまりに脆弱なものにしか勝田氏には写らなかった。しかし、勝田氏は、もし日本に仏教伝統を基盤にした、真の意味での自由思想、保守思想が生まれれば、そこには可能性を見出せるという趣旨のことを述べている」。
私は「保守思想の可能性」という分脈にはさほど関心がないが、「仏教」の伝統と「自由」というテーマには未来を救う思想として非常に魅力を感じている。