「逝きし世の面影」3

昔の日本がそんなに素晴らしい国であったはずがないと、過去を否定したくなる気持ちは、実は私にもあった。
幕末、日本に来た欧米人は、来る前からミステリアスなオリエントの国への期待感によって、色眼鏡で日本を見たのではないか?
あるいは、他国を知らずに、日本一国だけを訪問して、珍しい文物に夢中になっただけではないのか?
そんな疑問が浮かんでくるが、どうやらそうではないようだ。
まず、彼らははじめから日本に「楽園」を期待していたわけではない。ほとんどは、欧米の文化、価値観の優越性については、ゆるぎない確信をもっていた。また、日本は遅れた専制国家で人民は圧政下で苦しんでいるという先入観を持って日本に来たものも多かったのである。
さきほどのチェンバレンは、《日本にはほとんど専制的ともいうべき政治が存在》するといいながらも、《一般的に日本や極東の人びとは、大西洋の両側のアングロサクソン人よりも根底においては民主的であるという事実が(略)見逃されがちである》とする。
日英修交通商条約を締結に来日したオリファントは、《個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、驚くべき事実である》と言う。
さらに、当時の日本の印象を記したもののなかには、多くの国々を回り、他の諸文明と比較できる人びとがいた。つまり、日本だけを見て贔屓になったというわけではないのだ。
オリファントは、来日前、セイロン、エジプト、ネパール、ロシア、中国などについて豊かな見識を持っていた人物だ。彼は、《シナとの対照がきわめて著しく、文明が高度にある証拠が実に予想外だった》ともらし、母親への手紙にこう書いている。
《日本人は私がこれまで会った中で、もっとも好感のもてる国民で、日本は貧しさや物乞いのまったくない唯一の国です。私はどんな地位であろうとシナへ行くのはごめんですが、日本なら喜んで出かけます》
これは何の配慮も必要ない私信であり、彼の心情が吐露されていると見てよい。
(もっとも、当時の「清」は、西洋列強に一斉に襲いかかられ、国がずたずたにされていたから、日本の比較対象にされたのはかわいそうだが)
こうして、彼らは、東洋的専制の国という先入観をひっくり返す日本の姿に目を見張っていった。
明治7~8年に東京外国語学校でロシア語を教えたメーチニコフ;
《ヨーロッパ人であるわたしがもっとも驚いたのは、日本の生活のもつきわめて民主的な体制であった。モンゴル的な東洋のこの僻遠の一隅にそんなものがあろうなどとは予想もしていなかった》
日本の農民について彼は、《大部分のヨーロッパ農民よりも幅広い独立性を享受している》とし、農民が政府に対する不満を口々に語ることを見て、さらにこう書く。

《片田舎の農民を訪ねてみるがよい。政府について民衆が持っている考えの健全かつ自主的であることに、諸君は一驚することだろう。(略)民衆はおしなべて、この国の貧しさの責任は政府にあると、口をそろえて非難している。(略)それでいて、この国には乞食の姿はほとんど見かけないし、どの都市でも、夜毎。歓楽街は楽と踊りで賑わいにあふれている。これが、支配者の前に声なく平伏す東方的隷従だろうか》
イザベラ・バードも《日本のあらゆる階層が個人的な独立と自由を享受している》と言うように、幕末に来日した欧米人の目には、日本には、民主、平等、自由、そして個人の独立性までが存在した。
この本を読むと、「自立していない個人」と「閉鎖的なムラ社会」がずっと続いてきたとする、我々日本人自身が持つステロタイプな日本社会像もまた、ガラガラと崩れていく。
(つづく)