「逝きし世の面影」

前回紹介した、渡辺京二『逝きし世の面影』は、和辻哲郎文化賞に輝いた名著で、私にとっては、ここ数年で最も印象の強い本だ。読後、日本に生まれ育ったことへの誇りとともに悲しみもこみ上げ、独特の感動に包まれた。以下はこの本からの引用である。
前回の続き。江戸末期から明治にかけての外国人には、日本人の彼らに接する態度は驚きに値するものだったようだ。
幕末、プロシャから来たオイレンブルク使節団は、横浜近郊の村々を訪ねたが、どこに行っても、《茶、卵、オレンジなど》でもてなされ・・村人たちは《ときには道案内のために、世話好きではあるが控え目な態度でかなりの距離をついて来た》という。
次は、やはり幕末に来日した英国人ブラックの記述。
《彼らの無邪気、率直な親切、むきだしだが不快ではない好奇心、自分で楽しんだり、人を楽しませようとする愉快な意志は、われわれを気持ちよくした。(略)通りがかりに休もうとする外国人はほとんど例外なく歓待され、「おはよう」という気持ちのよい挨拶を受けた。この挨拶は道で会う人、野良で働く人、あるいは村民からたえず受けるものだった》
野良仕事をしている農民が、道行く外国人に例外なく「おはよう」と声をかけるというのだ。我々のご先祖たちは、かくも愛想のよい人々だったのだ。
 ここで「待てよ」と疑問の声をあげたくなる人がいそうだ。
 外国人に優しくするのは、お金やお土産をもらうことが目当てではないか。
 それに、農村といっても、横浜や長崎の近くでは、開けていて典型的な田舎とは言えないのではないか・・・。
 ここでは、東北地方を女一人で縦断、北上し、蝦夷地にいたったイザベラ・バードが証人としてふさわしいだろう。彼女は、私の故郷である山形県置賜地方を「東洋のアルカデヤ(桃源郷)」「エデンの園」と絶賛した人である。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20080122
 彼女は山形県の手の子(てのこ)村で受けた《親切にひどく心うたれ》たと記している。
 《家の女たちは私が暑がっているのを見てしとやかに扇をとりだし、まるまる一時間も私を煽いでくれた。代金を尋ねるといらないと言い、何も受けとろうとしなかった。・・・それだけでなく、彼女らは一包みのお菓子を差し出し、主人は扇に自分の名を書いて、私が受けとるよう言ってきかなかった》
 さらにバードは《私は親切な人びとがどこにでもいることについて語りたい》と書く。日本のどんな田舎に行っても歓待されたのである。
 現在の満員電車の無愛想さは、少なくとも江戸末期の農村の行動様式とはつながっていないと考えてよい。
 なお、広井良典氏が、日本語のコミュニケーションの語彙が貧弱だという議論を展開していることに触れたい。
 《「なじみのない他者」との間のコミュニケーションのための語彙が日本語では未成熟であり―実は「こんにちは」「ありがとう」といった言葉ですら、意外に新しい時代のものである―この課題は、ある意味で日本語そのものの進化あるいは変容を要請するものかもしれない》(前掲230頁)
 氏は、日本語のあり方にまで問題を広げているわけだ。これにも私は賛同できない。
 以前のブログで触れたように、もともと多くのアジアの民族では「メシ食ったか」が挨拶だった。近代挨拶語の成立は(ちゃんと調べたわけではないが)植民地主義との接触以降ではないかと私は推測している。タイの挨拶「サワッディー」の成立は1930年代になってからである。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20081213
 しかし、挨拶が「メシ食ったか」であること、つまり近代挨拶語の語彙が「未成熟」であることが即、「閉じた関係性」に結びつくのであろうか。
 前回と今回紹介した欧米人の記録のなかに「おはよう」「さよなら」「ありがとう」が登場するから、これらは幕末にすでに使用されていたことが確認できる。「どういたしまして」もすでに使われていた。
 日本語は他のアジア諸民族の言葉に比べて、近代挨拶語の成立はかなり早い。江戸期の日本の交易・物流の発達に関係していると推測するが、どうだろうか。
 全体として、日本語はむしろ挨拶語彙の豊富な言語だと思う。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20081215
 問題は「言葉」ではなさそうである。
(つづく)