満員電車にて2

知らぬ者同士が声をかけあわない、同じマンションの住民同士でも挨拶しない、街頭で体や荷物がぶつかっても無言のまま、など日本社会の寒々しい人間関係は何なのか、どうやって成立したのか。
広井良典『持続可能な福祉社会』では、広井氏は、中根千枝や和辻哲郎を引用しながら、こんなふうに論じていた。
《自分の属する集団(あるいは自分自身)の「ウチ」と「ソト」に対する行動や態度の「落差」の大きさこそが日本社会における関係性の特質である》
《「集団が内側に向かって閉じる」という点こそが、日本社会における関係性の最大の(今後克服すべき)特質であると感じている》
その原因を著者は《”稲作の遺伝子“という比喩的な表現で理解》し、この人間関係が一般化した時期を高度成長期の「農村から都市への人口大移動」に見る。この大移動で、農村型(ムラ社会)の関係性から個人をベースとした「都市型の関係性」に変容させるべきだったのだが、それに失敗し、氏によれば、《農村から都市に移った人々は”稲作の遺伝子“の関係性を変えないまま、そこで「カイシャ」、「(核)家族」という、いわば”都市の中のムラ社会“を作っていったのである》
この関係性、行動様式は、《(稲の伝播以来の)二千年前後に及ぶ長い時間の中で形成されてきた》もので《そう簡単には変えられないような深度に及ぶ》
つまり、よそ者に冷たく内に閉じた人間関係は、昔からの稲作によるもので、それが高度成長期に都市部に持ち込まれたというのだ。
広井氏は、第9回大佛次郎論壇賞を受賞した尊敬すべき研究者で、私は氏の論点のほとんどに同意するのだが、日本人の「関係性」の解釈には大きな疑問符をつけざるを得ない。
渡辺京二『逝きし世の面影』を読むと、日本の農村社会が、二千年もの間、「閉じた」関係性にあったとは考えられないのである。
この本は、江戸時代から明治時代にかけて日本に滞在した多くの欧米人の記録を集め、彼らの目に映った日本人の姿を紹介している。
明治維新の前年、今の川崎市近くの農村に出かけた21歳のフランス人、ボーヴォワルは、《オハイオやほほえみ》、《家族とお茶を飲むように戸口ごとに引きとめる招待や花の贈物》に触れながら、《住民すべての丁重さと愛想のよさ》は筆舌に尽くしがたいと書く。(「オハイオ」とは「お早う」のこと)
やはり明治維新の前、スイスの駐日領事をつとめたプロシャ人、リンダウは長崎近郊の農村での貧しい農家の歓待に感動した。
《いつも農民達の素晴しい歓迎を受けたことを決して忘れないであろう。火を求めて農家の玄関先に立ち寄ると、直ちに男の子か女の子があわてて火鉢を持ってきてくれ・・父親は私に腰掛けるよう勧め、母親は丁寧に挨拶をしてお茶を出してくれる。・・最も大胆な者は私の服の生地を手で触り・・金属製のボタンを与えると・・「大変有り難う」と、皆揃って何度も繰り返してお礼を言う。・・道のはずれ迄見送ってくれて、殆んど見えなくなってもまだ、「さよなら、またみょうにち」と私に叫んでいる・・》
幕末で、外国人といえば、究極の「よそもの」である。それに対して日本人は気後れすることなく、実に親切に礼儀正しく、好奇心満々で接している。それは外国人に大きな感銘を与えている。
このどこに「閉じた」関係性をもたらす二千年に及ぶ“稲作の遺伝子”があるのか?