同窓会と病院にて

takase222009-11-12

先週末は山形に帰っていた。
手術で入院中の父を見舞うのが主な目的なのだが、土曜日には中学の同窓会があった。今回出ないともう一生会えないだろうと思って出席した。
多くの顔ぶれが40年ぶりでとても懐かしい。会の冒頭、いきなり「黙祷」の声がかかる。物故者が何人かいたのだ。水泳部で頑丈な体だったS君、朗らかでよく笑っていたWさん、意外な人が亡くなっていた。
会場には、クロちゃんこと黒沼先生、ネンコこと田中稔子先生、チクデンこと竹田先生と、担任の先生が3人いらした。
1年のとき、クロちゃんが担任で、「生活記録」というのを書かされた。
朝何時に起きて、ご飯を食べて・・みたいな単純な記録でもいいし、感想めいたことを書いてもいい。それを提出して先生にチェックしてもらう。返ってきたノートを見ると、「味噌汁がうまかった」と書いたところに赤ペンで大きな○がついていたりするのが可笑しかった。こんなのアホらしいと無視して書かないやつもいたが、私はけっこう真面目に提出した。以来、毎日「記録」を書く癖がつき、40年以上たった今でも日記を付けていますと言うと、クロちゃんは驚いていた。
写真は締めの三三七拍子。左端がクロちゃん。

2年の担任だったネンコには、強烈な思い出がある。
ホームルームの時間、ネンコが「みんなの中で、将来、仕事でも観光でも何でもいいから、一度でも外国に行くと思う人、手を挙げて」と聞いた。「まさか、ありえない」と私は思った。東京オリンピックが終わって2〜3年である。総理大臣か有名なスポーツ選手でもなければ、外国に行く機会などないというのが常識だった。
すると、私の右の席の坂本礼子という女生徒がすっと手を挙げた。手を挙げたのはたった一人だった。「こいつ、何バカなこと考えてんだ」といわんばかりの視線が、一人手を挙げる彼女に集ったシーンがいまも蘇る。
ネンコは「将来、みなさんのほとんどが外国に行くようになります」と自信ありげに言い切った。当時は本気にしなかったが、今も覚えているということは、その予言がかなり気になっていたのかもしれない。この話を坂本礼子にしようと見回したら、途中で帰ってしまって言いそびれたのが残念だった。
40年前の記憶を胸いっぱいに吸ったような夜だった。

翌日、病院に父を見舞った。
どう、調子は、と声をかけたら、いきなり「あなたは誰ですか」と尋ねられた。
おれだよ、息子の仁だよと言うと、うんうんと頷く。しばらくするとまた、「あなたは誰ですか」。実の親から誰何されると、さすがに複雑な気持になる。
思い出が飛び交った前日とは激しい落差だ。
人格とは記憶であるという。父の人格も融けていく過程にあるのか。本人は内心とても不安なのではないだろうか。それは、世の中との「つながり」が切れていくことへの恐れがベースにあるという。
コミュニケーションとはもともと「共に楽しむ」「親密な関係をつくる」ことを意味するらしい。大井玄先生によれば、情報共有の働きが失われても、情動レベルでは、コミュニケーションは立派に成立するという。「つながり」を維持する情動は、気持を落ち着かせ、不安や怒りを抑えるそうだ。たとえば、笑顔で「こんにちは」と声をかけたとき、「こんにちは」に意味があるわけではないが、とてもいい情動コミュニケーションが成り立っている。
父の車椅子を押しながら、なるべく優しく声で言葉をかけ、意味のつながらない会話を延々と続けた。帰るときにはニコニコ笑ってくれ、救われた思いがした。