中村医師とペシャワール会は、貧しい子どもの教育のため、イスラム寺子屋ともいえる「マドラサ」とモスクも建設している。写真は今年3月、現地住民が総出でマドラサの屋根打ちをしているところ。
中村哲医師に関して、私の印象に残ったエピソード、言葉を紹介してみよう。
1)84年、中村さんはアフガン国境に近いパキスタンのペシャワールで、ハンセン病治療をはじめた。登録患者2400人に対して病床数16、まともな設備もなかったという。
《まるで野戦病院のようであったが、器具の消毒、洗浄、果ては患者の搬送まで自分の背中に担いで行った》。この状況は《「人間」に関する一切の楽天的な確信と断定とを、ほとんど信じがたいものにしていた》。
《その頃、ある海外医療協力団体から、はるか離れた国外で行われる「重要会議」に出席するよう矢の催促が来ていた。
「発展途上国の現実に立脚して海外ワーカーとしての体験を分かち合い、アジアの草の根の人々と共に生きる者として・・・。美しい自然と人々に囲まれたアジアの山村で語らいの時を・・・」
白々しい文句だと思った。(略)この非常時に患者たちを二週間以上も置き去りにする訳にはいかなかった。(略)無駄口と議論はもうたくさんだ。最後通牒のような「出席要請」を力を込めて引き裂いた。私は、(略)このような「海外医療協力」と、この時決別したのである》
2)90年代に入り、診療所を開く候補地にアフガンの山奥の無医村を選んだとき、首都カブール出身の医師たちは辺境を恐れ、赴任を拒否するという事態になった。医師らは現地出身の職員と対立し、都市部であるジャララバードに開設を主張したが・・・
《私はあっさりと退け、予定に変更なしと指示し「山村無医地区診療」を修正させなかった。赴任拒否をした医師らが「辞職」をちらつかせて抵抗したので、十数名を全員解雇し、皆に意外の感を与えた》
診療活動の主力部隊をばっさり切ったのだ。しかし、これで動揺がおさまったと言う。
3)中村さんは《旱魃対策、アフガン空爆、食糧配給など自分の人生で最も多忙な時期》にあたる01年、次男が脳腫瘍と診断され、02年の年末、死亡するという悲劇に見舞われた。わずか10歳で可愛い盛りだった。中村さんは本にこう書いている。
《幼い子を失うのはつらいものである。しばらく空白感で呆然と日々を過ごした。今でも夢枕に出てくる。空爆と飢餓で犠牲になった子の親たちの気持が、いっそう分かるようになった。人はしばしば自分でも説明しがたいものに衝き動かされる。公私ないまぜにこみ上げてくる悲憤に支配され、理不尽に肉親を殺された者が復讐に走るが如く、不条理に一矢報いることを改めて誓った。その後展開する新たな闘争は、このとき始まったのである》
息子の死が、むしろ腹を決めさせたという。
4)DVDから;
中村さんは、現地の悲惨な状況を見て、医療より生活再建が重要だと考えた。戦略転換を決め、「緑の大地計画」というプランを立ち上げる。
その土木工事に向かう大勢の農民を前に演説した中村さんは、みんなのチームワークを強調しながらこう檄をとばした。
“Discussion is not requested!Just practice!”(議論は無用!行動あるのみ!)
中村さんは声を荒げる人ではない。普段はぼそぼそとした語り口だ。このときも口調は毅然としていたが、声は静かだった。
こうした行動の数々は、中村さんの並みはずれた使命感、信念を感じさせる。
普通の穏やかな人道・博愛主義者ではない。また、頭に鉢巻巻いて「ガンバロー」と叫ぶ活動家タイプではもちろんない。
中村さんとは、どんな思想的背景を持つ人なのか。
(つづく)
参考:1と2は中村哲『アフガニスタン・命の水を求めて』/3は同『医者、用水路を拓く』