「新聞が消えた日」3

最近のニュースから。
インタファクス通信によると、ロシア南部チェチェン共和国の首都グロズヌイで11日、地元人権団体「世代を救う」の女性活動家ザレマ・サドゥラエワさんと夫が射殺体で発見された。
 チェチェンでは、グロズヌイで活動していた人権団体「メモリアル」の女性活動家エステミロワさんが先月中旬に拉致され、隣のイングーシ共和国で射殺体で見つかる事件があったばかり。
 サドゥラエワさんと夫は10日にグロズヌイ市内の事務所から何者かに拉致され、関係者が捜索願を出していた。二人は11日早朝、同市内に止められた自身の車のトランクの中から遺体で発見された。》(共同、8月11日)
チェチェンではNGOも命を狙われる。

チベットに比べてウイグル問題が取上げられないのはイスラム教だから、という話を聞いたが、これはチェチェン問題にもあてはまるのだろうか。最近はチェチェン問題はごくたまにしか目にしなくなっている。

アメリカの新聞の話。
先月半ば、『ニューヨークタイムズ』が65年にわたって所有してきたラジオ局を売却したというニュースがあった。名門新聞も経営難を迎えている。
直接の原因は広告収入減で、NAA(米国新聞協会)によると、昨年の新聞広告収入は前年比17%減少したという。アメリカでは、広告収入の減少を、当面は新聞価格の引き上げで補う動きになっているようだ。『ニューヨークタイムズ』の場合は、2006年に一部1?だったのを3年連続で値上げし今年6月から2?にした。しかし、この措置だけでしのいでいくことは難しいだろう。
2年ほど前、毎日新聞の幹部だった河内孝氏が『新聞社−破綻したビジネスモデル』という本を出した。ここですでに、日本の新聞についても将来はきわめて厳しいとの予測があった。
そこでもインターネットの問題は大きく取上げられている。新聞もネット上で読めるようになっているが方法はまちまちだ。記事を無料で提供するもの、お金を払わないと読めないもの、無料閲覧は記事の一部だけで詳しく読みたい人だけお金を払うものなど方式はいろいろだが、どれも採算は取れていないという。

インターネットがあれば新聞などいらないという議論があった。
たしかに、情報へのアクセス可能性は爆発的に増えた。誰でも直接にホワイトハウスのサイトでオバマ大統領の演説を直接に見たり読んだりできる。しかし、普通に生活している人が自力で情報を取り、判断していくなどということは時間的にも労力から言っても無理である。
そこに、氾濫する情報の中から必要なものを選んで整理するという新聞などのマスメディアの必要性が出てくる。ジャーナリズトとは「ゲートキーパー」、水門の門番で、水の流れを情報に見立て、それを調節する役目なのだという。
また、新聞が危機にある今こそ、社会の「木鐸」という役目もあらためて強調されてよい。アメリカは地方紙を基本とする社会だが、地方紙が潰れたところでは、汚職が増えているという調査結果も出ている。
やっぱり新聞は必要なのだという強い支持を受けるためには、まずは「門番」であり「木鐸」であるという、新聞本来の機能を充実させる努力をしなければならないのではないか。
ひるがえって、テレビである。テレビの凋落は、景気後退が主因ではないとの見方があることについてはすでに触れた。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20090723
新聞、テレビといった代表的なメディアがどのようにして存在していけるのかについては今後、折にふれて書いていきたい。